茗溪学園29回生学年父母会パネルディスカッション(前編)

テーマ 「道しるべになったもの」
平成20年3月1日(土)午後2時より第1AVE室にて、29回生父母会のパネルディスカッションが開催されました。4名の卒業生をむかえ、大変参考になるそして親としても考えさせられる貴重なお話を伺うことが出来ました。当日ご参加頂けなかったご父母の皆様、後輩に当たる子供達にも是非内容をお伝えしたいと思います。

パネリスト     山本竜司(14回生)
小室俊輔(20回生)
大澤祐子(20回生)
菅谷智之(21回生)
コメンテーター   高島渉先生
コーディネート   29回生学年父母会
司会        深田真吾
● 開会の挨拶
藤澤敏夫学年委員長 29回生の子供たちは来月には高校2年生になります。今、子供たちは将来の職業を見据えて卒業後の進路を考える極めて大切な時期に入っています。私たち父母はこの大切な節目に、子供たちが希望する方向に胸を張り自信を持って踏み出すことができるよう親として最善のバックアップをしていく必要があると思います。そのためには、子供たちの本音や悩みなどを十分に理解する必要があります。そこで父母会では、進路指導の高島先生よりご紹介頂いた、とても魅力的な卒業生4名の方々をパネリストに招き、高校生のころに思ったことや当時を振り返って、今思うことなどその生の声を聞こうと、今回のパネルディスカッションを企画しました。
高島 進路指導部長の高島です。卒業生を迎えてこのようなパネルディスカッションを開催するようになったのが24回生の時からですので、今回で6回目になります。それ以前は地区父母会で行われていて、我孫子地区父母会が最初でした。その評判が良く高校1年生の父母会でこのようなことができないかということになり学年父母会主催で開催されるようになりました。毎回学年父母会の役員から出されるテーマにそったパネリストの選択にはいろいろ苦労をしています。
司会 それではこれからのおおまかな流れを説明させて頂きます。始めは自己紹介と茗溪時代について。2つ目は個人課題研究テーマと現在。3つ目は今だから話せる親、先生との関係。最後は集まった父母に対して一言ということでお話を伺いたいと思います。


● 自己紹介

山本 14回生の山本です。14回生はいろいろ問題の多かった学年のようで、高島先生が特に思い出される学年であったと思います。僕は在学中柔道部に所属していて、学生生活はほぼ毎日部活のために過ごしていました。勉強は理系でしたので理科の成績は良かったですが、他はぼちぼち悪くて・・。(笑い)英語、古文、漢文、語学系がとにかく苦手で、その中でもとくに英語は苦手で1番下のクラスで過ごしていました。1番下のクラスの中でも、下から1番目か2番目という状態で高校生活を過ごしました。受験でも英語の成績はふるわなかったのですが、一浪して北里大学理学部の生物科に入学して、その後相模原の医学部の大学院で修士課程をとりました。修士課程の研究の関係でつくばの農林水産省関係の研究所で実験をやることになりました。その研究所の先生の紹介で最終的に東北大学農学部へすすみ、3年前に博士課程を終了しました。現在はT大学歯学部で生化学基礎を教えております。もちろん研究も続けており、歯の再生の研究をしております。後半が立派すぎる経歴で・・。(笑い)高校時代は本当に勉強が出来なかったし、自分で興味があった理科だけはできましたが、他の科目はぜんぜん勉強をしませんでした。

小室 土浦市神立の出身です。茗溪ではサッカー部に6年間所属していました。中学の時はホームルーム委員、高校の時は体育委員をやっていました。茗溪時代は部活ばかりに集中していて、勉強についてはほとんどやらなかったのですが、これは今振り返ってみると残念な日々でした。僕は夢だけは漠然と持っていて、医師になりたいと思っていました。それは今でも同じです。現役時代はあまり勉強をしなかったので、夢には届かず浪人をしました。浪人中はかなり勉強をしたのですが、それでも医学部には合格することが出来ず、筑波大学に進学をしました。筑波大学では生物資源学類で生物の勉強をしていました。昨年大学を卒業して、現在大学院の一年に在籍しています。就職活動を通して社会勉強をしているのですが、やはり医学、医師への道をあきらめることが出来ず、今も受験を考えておりますので、みなさまのお子様とライバルになる可能性があります。(笑い)

大澤 20回生の大澤祐子です。現在県立高校で保健体育の教師をしております。茗溪時代は6年間バドミントン部に所属しており、私も部活をするために学校に来ていたような毎日でした。勉強は自分の努力が足りず、成績は悪く、英語は私も高校3年間一番下のクラスにいました。そこからどうしても抜け出せなくなり、もしかしたらここが自分に一番合っているのかなと思うほど一番下のベーシックから抜け出せない3年間でした。中学時代は正直言ってそのまま茗溪の高校に進学するかも悩みました。その中で茗溪の学校自体が好きだったことと、そこで勉強を教えてくださる先生方がとっても魅力的だったこと、周りの友達に恵まれていたのでそのまま高校に進学しました。高校生になってもあいかわらず勉強はふるわず、卒業の時は進路も決まっていない状態で卒業を迎えました。そのあと一年間の浪人生活を送りました。浪人の時代も学校という枠がなくなってしまったために、誰も何も言わない状態になり、勉強より他のことに時間を費やした一年間になってしまいました。その結果希望の大学には合格することができませんでした。それでも教師への道をあきらめきれなかったので、玉川大学女子短期大学へ進学をして、2年間短大で勉強をしました。そこで玉川大学への編入試験を受け、教育学部を卒業して、県立高校で保健体育を担当しています。

菅谷 21回生の菅谷です。茗溪学園の生活ですが、他の3人の方と同じように私も勉強の方は残念な感じで・・・。(笑い)中学、高校と6年間テニス部に所属していました。高校生の途中までは部活をしに学校に来ていると思っていました。実際高校2年生までは家で勉強をしたことがほとんどなく、高校2年生の時に、テニス部の優秀な後輩が「家に帰って、勉強をしなきゃ」と言っているのを聞き、家で勉強をするものなのだと思いました。部活から帰って、クタクタでしたので、ご飯を食べて、テレビを見て寝る。また次の日学校へ行って部活をして・・・、授業中は話を聞いたり、聞かなかったり・・・。高校3年生の時にこれではまずいと思い、テニス部を引退してから勉強を始めました。大学は法政大学に入学をしました。大学に入り高校生の時の教訓を生かして勉強をしたかというと疑問は残るのですが、今は不動産関係の仕事をしています。
司会 学校時代の行事の思い出などを聞かせてください。またそれが今役立っていることなどありましたら教えてください。
菅谷 茗溪学園は毎年何か行事のある学校です。その中で楽しかった思い出は、イギリスの研修旅行でした。本当に研修をしたかというとこれはまた疑問なのですが・・。(笑い)行事が多いので、6年間一緒に過ごし、卒業してからも友達と話す思い出が多く出来ると思います。生活に役立っていることといえば、筑波山キャンプです。お風呂に入れないけれど大丈夫です。水道の水でも頭が洗えるようになりました。それから遠泳。水泳が苦手でしたが、遠泳を経験したことにより、万が一の時に泳げるようになりました。なかなか4キロ泳ぐことはないと思いますので非常に良い経験になったと思います。進学校で4キロ泳ぐかなとも思いますが・・・。みんなたくましくなると思います。
大澤 私も一番思い出に残った行事は4年生の時の4キロ遠泳です。私は現在高校で保健体育を教えているのですが、当時は平泳ぎが出来ませんでした。顔を上げて、足のつかない海で泳ぐなんてとても出来ない・・・。茗溪では泳ぎが苦手な生徒に対して遠泳直前にあたる前期末に水泳の補習がありました。私は連日バトミントンの部活をして、そのままプールに入って水泳の練習をする、という繰り返しでやっと4キロ泳げるようになりました。やはりそれが一番の思い出です。実は当日もみんなと一緒に泳ぐことは出来ないで、泳力の劣っているグループで最後まで泳ぎ切りました。泳ぎながら先に4キロ泳ぎ切った友人達がお汁粉を食べたりしているのを見て、あそこに戻ってゆくのはいやだなと思ったのですが、岸に着いた時みんなが拍手で迎えてくれて本当に嬉しかったです。苦手なことでもそうやって頑張ってやって良かったなと思ったのが一番の思い出です。
司会 現在先生として、そういった自分の経験が影響していることがありますか?
大澤 現在私は高校1年生を担任しているのですが、クラス全体の目標として、居心地の良いクラスを作ろうということを目標としています。悪口を言わないこと、なにかあった時に話せる環境を作ろうということで、友達同士で話す機会を作ったり、私と一対一で話す時間を取ったりしています。自分自身が茗溪という暖かい環境で育つことが出来たので、そういうことを生かそうと工夫をしています。
小室 僕が一番印象に残っているのは中学2年生の時の筑波山キャンプです。班ごとに分かれて筑波山まで歩くのですが、自分は班長をやっていました。その時同じ班に体の弱い女子がいました。長い距離を歩くので、前もって先生から班長としてその女子を見てやってくれ、しっかり頼むぞと言われました。そのため自分の中では責任をもってその女子には注意を払い、班長としてしっかりと役割を果たそうとしていました。ただ山登りは大変でいろいろありましたがその時の僕は自分自身のことより彼女を守ろうという気持ちがありました。それは誰かにそれをわかってもらいたいということではなく、自然に出た行為だったのです。でもそれを見ていて下さった先生がいて、学年集会の時に名前は出さないで自分のことを「こうやって頑張ってくれた人がいました」と話して下さいました。それが印象に残っていて、自分が頑張っていればどこかで誰かが見ていてくれるんだということが、その後の茗溪生活の中でも自分の柱になっていました。何でもないことなのですが、それが自分の中で一番印象に残っているところではあります。受験に失敗したこと、勉強をしなかったこと、楽しかったことなどたくさんあるのですが、自分の中で中心になっていることはそのことです。
山本 一番印象に残っているのは、やはり20km以上歩いて登る筑波山キャンプです。班ごとに分かれて何分かおきに出発するのですが、自分たちは確か前半のスタートだったと思います。自分たちの作ったルートで歩いて良いということで、目的地まで定規をひいて一番近い道をたどりました。ところが実際筑波山についてみたら、ビリでした。一番近い道を歩いていたはずですが、山が近づいた頃先生方がチョロチョロと様子を見にいらして、何故かなと思っていました。しかも自分たちのところに来ては戻って行かれるので、先生方も暇だなと思っていました。たどり着いてみると開村式もすべて終わっていました。最短距離を行ったはずなのに、一番ビリだったということは衝撃的でした。そこで学んだことで、今はあまり脇道を走らないようにしています。生活に役立ったことでは5年生の時の個人課題研究です。現在僕は研究をしていますが、個人研が直接的に役に立っているかというと難しいのですが、漠然と研究とはどういうものかということが多少意識できたと思います。中学、高校での実験というのは結果が分かっていることを実証する、つまり勉強すればどういう結果が出るか分かるような実験をやるわけで、それは大学にはいっても手技的にはレベルアップするかもしれないけれど、ちゃんとした実験を3日位やればわかるような実験もあります。どういう結果が出るか分からないというものに対してどう取り組んだら良いかということに出会ったのは個人課題研究が初めてであったと思います。もっとも当時は本当に初めてのことで、大変難しいものだと感じた印象があります。

高島 ちょっと呼ぶメンバーを間違ったかなとも思っています。(笑い)今の山本君の発言でいろいろ思い出してきました。私は山本君の14回生の時の学年主任でしたが、それはなかなか大変な学年でした。次から次へと問題を起こしてくれました。筑波山キャンプはその最たるものでした。私は何度もキャンプに参加していますが、14回生の時は3泊4日のキャンプで夜ほとんど寝ることが出来ませんでした。生徒達がテント移動ばかりするので、私と吉田先生の二人は毎晩駐車場の茗溪号の中で仮眠を取っていたものです。しかし話を聞いていて、ずいぶん成長したと思いました。今日この会の前に学年委員の役員の人たちと打ち合わせがあり、山本君は自己紹介で、自分の経歴を述べ、最後は東北大学大学院の博士課程を出て博士号を取りましたというので、それを聞いた役員の人たちはみなすごい人だなと思ったわけですが・・・。こうして見ると小室くん以外全員、英語はベーシッククラス。ほとんど3年間ベーシック。小室君がこの中で一番優秀で、インターでしたが、でも高校1年生の時はベーシックにいたこともあり、全員がベーシック経験者です。菅谷君は大学へ現役入学ですが、彼以外は全員浪人経験者です。いずれにしても現在茗溪学園でやっていることが今の仕事、これからの仕事に役に立つかというと、実はそんなに簡単には分からないと思います。トータルとして出てくるものだと思います。先ほどの話を聞いていてもおわかりいただけるかと思いますが、たとえば筑波山キャンプ。これは本来巡検をやりながら行く行事です。タイムレースではないので、早く着くのが偉いのではなく、そこに行くまでの間にどういうルートを通り、何をテーマにするかというフィールドワークです。山本君は浅はかで(笑い)、単純に直線距離を取って行ったということですね。茗溪ではかなり生徒達がフリーハンドを与えられて、この中で自由にやっていくというプログラムの組み方をしているのです。たとえば高校2年の海外研修旅行です。20回生までは台湾、21回生からロンドン研修でした。実は中学3年生でやる京都研修と同じようなことを海外でもやるわけです。それはどういうことかというと、それぞれの班がテーマを持って研修をやる。中学の時は班でテーマをやったが、高校では個人がテーマを持って共通のテーマの子を5、6人のグループにするのです。そのグループがテーマをもとに施設訪問をして、インタビューをするわけです。なぜこれが高校2年で出来るかというと中学でもやって来ているからです。このようなことは子供に対して相当信頼を持っていないと出来ないので、ほかの学校の先生にお話しするとびっくりなさるのです。「生徒がどこへ行ってしまうか分からない」とおっしゃる・・・。でも茗溪生はそういうことはない、しっかり出来るのです。その信頼を見事に裏切ってくれたのが、山本君の14回生ですが・・・。(笑い)それ以降はまじめな生徒が増え、山本君も想像出来ないほど立派な学校になりました。(笑い)
司会 そういえば29回生も里見キャンプでは福島県まで行きましたね。(笑い)つぎに2番目のテーマの個人課題研究テーマとその後の進路ということでお聞かせ下さい。
● 個人課題研究
山本 個人課題研究のテーマは「核融合」というテーマでしたが難しすぎて、本を写し・・・本を写して・・・。(笑い)それは核融合についていろいろ調べるというものでした。当時僕の中で唯一成績の良かったのが物理と化学でしたが直前のテストで物理の方が良かったので、物理の方に進むのも良いかなと思い、核融合をテーマにしました。核融合をテーマに選んだ理由は環境問題に興味があったことと、環境問題を解決できる新しいエネルギーになるのではないかと漠然と思い選びました。現在自分が行っている研究は、歯学部の生化学ということで完全に生物の方の勉強をしています。その方向の変わり目はもともと環境問題に興味があったので、物理というよりは生物の方に行きたいかなと気付いた受験の直前の頃でした。核融合をテーマにして物理というのは難しいなと思ったのも事実です。数式を相手にどこまで出来るかなと思いました。当時物理と生物は成績が良かったのですが、数学はトップクラスとは言えず、真ん中のクラスだったと思います。それほど数式を解くのが得意という訳ではなかったので物理は挫折しました。それから環境問題を取り扱うにあたって、別に物理でなくても良いのではと思うようになりました。現役時の受験はほとんど理学部の化学科か応用化学、基礎化学などの受験をしました。結果は全部だめでしたが、浪人生活に入り、物理と化学の勉強をしてくると、物理をちょっと大きな目線で見たのが化学で、さらに大きな目線で見たのが生物。そして生物現象を絞ってゆくと化学現象であり、物理的なもので、物理も化学も生物も関係ないのかなと思い始め、生物で受けてみようかなという気持ちになり、最終的に生物・化学で受験しました。個人課題研究の時は環境問題を考えていたのですが、現在は環境問題とも関係ないテーマで研究を行っています。年齢を重ねるに従って、視点が変わったというか、視界が広くなった感じで、自然に生物にシフトしていったと思います。
小室 僕は障害児教育がテーマでした。いまの研究テーマとは違います。いまは再生腎臓研究をしています。実際は医学に進学したいという希望があったので、医学関係のテーマにしたかったのですが、成績が良くなかったので、先生にやめろと言われるのが目に見えていたので・・・。そこで少し控えめにして、それに近い部分で、障害児教育はどうかと考え、障害を持った子供達の教育現場を見ることが出来たらと選びました。その教育現場と医療現場との関係性をテーマとして個人課題研究をしました。実際始めてみると大変難しく苦労しました。テーマを決めていろいろな先生と話したり、自分の場合は養護学校の先生のお話を伺ったり、実際にその教育現場にはいって体験できたことは一番印象に残りました。それから今考えると親とは個人課題研究のことを話さなかったなと思います。親があまり個人課題研究について知らなかったこともありましたが、何をしているとか、今どういう状況かなど親と話さなかったことは残念だなと思います。今の研究テーマとは違いますが、この障害児教育という研究を行ったことで、障害を持った方と接する時、またもっと広く人と接する時などの基盤が出来たと自分では考えています。
司会 先ほどの自己紹介でもおっしゃっていましたが、また違った道を目指しているということで、また変化があるかも知れませんね。高校時代、大学、そして現在とまだ進化中ということで・・・。
大澤 個人課題研究はパラリンピックと障害者スポーツについてというテーマでした。しかし当時の私は将来のことを考えるよりも、目の前の定期テストをクリアすることが精一杯でしたので、たまたま車いすバスケットボールの試合をテレビで見る機会があり、それが想像を超えた激しいスポーツであったことと、当時スポーツに興味があったので、本当にそれだけの理由でテーマとしました。当初はいろいろな施設を訪問したり、障害のある人にとってのリスクの多い場所などいろいろ研究をする予定でしたが、計画倒れになり、締め切りにやっと間に合って提出したような状態でした。ただ障害者スポーツという個人課題研究をやっていく中で、それと関連して、興味を持ったことが病院の中に学級がある院内学級でした。学校へ行きたくとも病気のために学校へ行けない子供達に教育を受ける機会を与える機関があることを知り、個人課題研究をやりながらその職に就けたら良いなと思うようになりました。実際には院内学級は小学校の先生が訪問教育として病院へ行って授業をしたり、課題をしたりするシステムでした。また定年退職した先生がその後の仕事としてやることが多かったので、仕事として院内教育にたずさわることは生活の面も含めて難しいと言われ、その後進路の変更をしてゆきました。
司会 大澤さんは短大へ進まれ、その後大学に編入されましたが、それは難しいのでしょうか?
大澤 編入試験はものすごく大変でした。200人ほどの短大生の中で編入をしたのは10人足らずでした。私にはもう後がなかったのです。教育について勉強したいと思っていたのですが、大学の教育学部に受かることが出来なかったので、その道がまだ残っている短大に入り、それから編入試験を受けようと入学当初から決めていました。ですから短大に入ってからは自分でも驚くほど勉強をしました。茗溪にいた頃は授業が呪文のように聞こえすぐに眠くなってしまったのですが・・・。短大の時は一日も、一時間も休まず、一生懸命勉強をして編入することができました。
菅谷 私の個人課題研究のテーマはディズニーランドの生い立ちでした。(笑い)ディズニーランドの生い立ちをテーマに選びましたが、個人的に特別ディズニーランドが好きであったわけではありません。テーマに選ぶまでディズニーランドには行ったことがありませんでした。もっとも父は3歳くらいの時に一度連れて行ったというのですが、僕は覚えていません。自分が高校1年生のころは将来のことなど本当に何も考えていませんでした。父は自営業でしたので、それを継げば良いくらいに考えていました。ところが高校2年生くらいからお金が好きになり(笑い)、自分で社長になりたいと考えるようになりました。漠然としていましたが、経営者になりたいと考えました。偉そうなことをいっている父親を越えるような経営者になりたいと思いました。私と父親は仲が良いのですが・・。経営について考えた時に、ちょっと幼稚だったかも知れませんが何が儲かっているかなと考えました。今考えればほかにもいろいろ面白い企業はあるのですが、自分たちが生まれた頃、23年前に日本に出来たディズニーランドが儲かっていると考えました。ディズニーランドを知らない人は世の中にいないと思い、アメリカにあったディズニーランドをどのようにして日本に作ったのかが気になりました。個人課題研究で研究をしてその経営について分かったかといえば、そんな簡単に分かることではなかったのですが、徹底したカスタマーサービス、お客様満足主義といったことが分かっただけでも良かったかなと思いました。実際には締め切りにはギリギリで最後は大変な思いをして仕上げました。自分もこの個人課題研究について両親と話す機会がほとんど無かったのですが、もう少し相談してみれば良かったのかなと思いました。これから皆様も子供達と話す機会があったら、これをやったら良いのではといった親の気持ちもいろいろあるかと思いますが、本人がやりたいことをやらせるのが良いのではないかと思います。個人課題研究は大学になっても役に立ちます。やりたいことを応援してあげるのが良いと思います。
高島 最近はインターネットがかなり普及してきまして、カットアンドペースト、コピーをしてそれを貼り付ける。ただ単にインターネットでいろいろなサイトへ行ってそれをプリントアウトして、その内容を自分でパソコンに打ち込んでやった気になってしまう生徒もいます。この点は我々指導教員が一番注意をして指導をしているところです。とくにインターネットで、カットアンドペーストで出典もなにも明らかにしない論文、これは盗作です。これは論文を書く上で一番してはいけないことでどの先生も必ずその点を注意します。また私は毎年これを言っているのですが、個人課題研究で何をポイントにしているかというと、大きく分けると2つほどあります。1つは適性、不適性を見つけることです。テーマを自分で見つけ、その方向で自分の将来を考えることが多いのですが、それがはたして自分にとって適性があるのか、ないのか。逆に無いということが分かる時もあることで、これはこれで大変意義のあることです。先ほどの山本君の話でも核融合をやっていて、ちょっとちがうなと思うことはそれはそれで意味のあることです。それともう1つは学問研究に対する、主体的な姿勢を身につけることです。著作を読み、文献を調べて、文献に書いてあることをそのまま写すということは研究ではない。研究をするということはどういうことなのか。自分の足で調べ、実験をして実証する。ここが大事なことで、高校2年生がやることですから、大発見が出来るということはほとんど無いわけです。しかし少なくとも学問研究に対する主体的な学習姿勢を身につける、適性、不適性を見極めるということ。これはとても大きい副産物になるだろうと思います。実際、毎年30人から40人はすばらしい研究をします。例えば、大学の先生から見ても大学生の卒論をはるかに越える、という評価をもらうほどレベルが高いものが幾つもあるのです。どうしてそこまでレベルが高くなったかというと、個人課題研究も今年で28年間になるということは、28回にわたる先行研究があるということなのです。過去のものと同じようなテーマでやる生徒に対して、指導教員は「先輩の論文を見るように」言います。先輩がどこまで明らかにしているのかを調べ、さらに「先輩がやった研究の先までやるように」指導するからなのです。進路指導室には過去の論文が、1回生から28回生の分まで全部揃っていますが、1回生、2回生のものを今見てみるとこんなものだったのかと思います。茗溪の卒業生で茗溪の教員になっている者が10人ほどいますが、大変ですよ、全て公開されているわけですから。(笑い)それほど長年の間にレベルが高くなっていることが見て取れるわけです。もう一つ、個人課題研究について親と話す機会がなかったという話が出ていましたが、だからと言ってあまり親の方から、どうしてる?何やるの?と聞き立てても、かえって今どきの子からは「ウザイ」と言われてしまいます。ただ子供が「個人課題研究のここでつまずいているんだ」、などとちょっと何か言った時はチャンスですので、是非その時をとらえて話をして欲しいのです。親のやりたいことをやらせるのではなく、話をすることが大事なのです。個人課題研究の話をしていても、そういう時が将来への道を開くチャンスになることがあるのです。子供の方からちょっとでも何か言ってきた時には話をする良いチャンスにして欲しいと思います。
茗渓学園29回生学年父母会パネルディスカッション後編につづく)