英語科:イベット・フラワー先生 [先生の紹介]

今回は英語科のイベット・フラワー(Yvette Flower)先生です。
2010年7月21日(水)、茗溪学園会議室でインタビューに答えていただきました。
父母会HP編集委員会 塩田(35K)、斎木(35K)、川崎(34K)、森田(30K)
−ご出身はどちらですか?
出身地はニュージーランドのネルソン市(Nelson)、南島の一番北にある港町です。首都ウェリントンのある北島から飛行機で30分程の場所にあります。
小学校は、ネルソンにあるエナグレン小学校(Enner Glynn Primary School)。家から徒歩5分の場所にありました。Enner GlynnのGlynnには谷という意味があります。中学校はワイミア中学校(Waimea Intermediate)。ワイはマオリ語で水の意味です。住んでいた郊外に中学校がなかったためバスで通学していました。高校はネイランド高校(Nayland College)で自転車通学でした。大学は、南島で一番大きな市のクライストチャーチ市にあるカンタベリー大学(Canterbury University)です。
−生まれ故郷のネルソンはどんなところですか?
海があって山もあるので、とても綺麗なところです。大聖堂があり、メインストリートがあり、とても素敵です。海でも泳ぎますが、川や湖でも泳ぎました。良い思い出です。自然が豊かで美しい場所です。「ジュラシック・パーク」や「ロード・オブ・ザ・リング」、「ナルニア国物語」などの映画もニュージーランドで撮影されました。
−どんなお子さんでしたか?
とにかく本が大好きでいつも本ばかり読んでいるので母に怒られました。トイレに入るときも必ず本を読んでいたので、母はトイレを図書室と呼んでいました。「ナルニア国物語」シリーズが大好きで、子どもの頃作者に手紙を書こうと思ったら、私が生まれる前に既に亡くなっていたと知り、すごくがっかりした覚えがあります。他には、神話、伝説、SFなどが好きです。
外で遊んだりするのも好きで、妹とよく遊んでいました。庭が広くて芝生も多かったので、夏には手伝いで毎週芝刈り。それが嫌で仕方なかったです(笑)。
−大学時代の専攻は?
もともと言語に興味があったので、大学では英語と日本語を勉強しました。日本語は高校のときから勉強し始めました。当時、イギリスがEUに入り、ニュージーランドはアジアに新しい貿易先を求めていました。その影響で日本語教育も始まり、私が高校1年生の頃から日本語のコースができました。それまではフランス語を教えていた先生が、突然日本語を教えるための勉強に行かされるなどのエピソードもありました。勉強していくうちに日本語が好きになりました。
−日本にいらしたきっかけは?
カンタベリー大学を卒業後、奨学金で筑波大学に聴講生として日本語を勉強しに来ました。ニュージーランド人は大都会に慣れていないから東京に行くのは心配ということで、ニュージーランドの大学の先生から、自然が多く残っているつくばの大学を奨められました。
−つくばに降り立って初めての感想は?
成田に着くはずの飛行機が霧のため、羽田に着いてしまいました。筑波大学からの迎えの人は成田空港で待っていたので、自分たちだけでタクシーでつくばまで来ました。タクシーの運転手さんも東京のかたで、つくばのことが良く分からずに筑波大学の構内をぐるぐると廻って、大学の本部へ行くはずがなかなか辿り着けず、筑波大学って広いんだなあ、と思いました。逆に、寮の部屋はとても狭い印象でしたね。両手足を広げると壁に届いてしまいびっくりしました。大学の宿舎の放送は茨城弁が強く、聞き取るのに苦労しました。それもとても良い経験でしたね。
−その後は?
奨学金での勉強は1年半でした。終了後は日本に残り、英語を教えたり自分で勉強したりしていました。そして、最初の予定にはなかったのですが結婚をしました。つくばに来てから2年後のことです。茗溪の先生の紹介で、今の夫と知り合いました。
−ご主人との出会いについてお伺いしてもよろしいでしょうか?
夫と同僚だった私の知人が、当時茗溪学園でラグビーの先生をしていたイギリスのウェールズ出身の男性を紹介しようと、茗溪学園でのパーティーに私を招待してくれました。私は車を持っていなかったので、知人から「ちょっとイベットさんを車で迎えに行って会場まで連れて来てちょうだい」と頼まれたのが、今の夫でした。ところが、車で茗溪学園へ行くまでに道に迷ってしまい、この辺りを車でぐるぐる廻っているうちに、車中、2人でとても話が盛り上がり意気投合して、お付き合いをすることになりました。ウェールズの先生? 話はしましたが、ちょっと合わなかったかな(笑)。
その後、主人が台湾の海外日本人学校に転勤するのをきっかけに結婚することになり、4年間台湾で暮らしました。大学で中国語も1年間勉強していたので役立ちました。台湾でも私立学校で英語を教えました。
−茗溪学園との出会いはどのようなものでしたか?
台湾から日本に帰国後、茗溪学園に就職しました。筑波大学の聴講生のときに知り合った、当時茗溪学園の英語科主任だった日野克美先生から、「つくばに戻って来るのなら茗溪に来てくれないか?」と誘われたのがきっかけです。
−今までの人生で嬉しかったことは何がありますか?
子どもが生まれたことです。娘が2人います。 2人とも茗溪学園を卒業し、現在は大学生です。
初めてイギリスに行ってウエストミンスター寺院に行ったときも嬉しかったです。私の先祖はイギリスからニュージーランドに開拓者として行ったので、そこでいろいろ繋がった感じがしました。
−お子様の言語についてはどのようなお考えでしたか?
娘たちは日本で生まれ育っているので、日本語が母国語ですね。英語は覚えてほしかったけれど、それが子供達のプレッシャーになるのは嫌だったため、親子の関係を第一に考え、英語の勉強は強制しませんでした。ニュージーランドにしばらく行かせることも考えましたが、父親から1年間離して暮らすということには不安がありました。そこでニュージーランドの母に多く日本に来てもらい、英語でコミュニケーションを取ってもらいました。上の娘は今、英語で「トワイライト」を読んでいて、下の娘は英語は嫌だと言いながらも、大学でいきなりESSに入ったりなど、自分なりに勉強しようと思っているようです。
主人の両親は茨城県出身で茨城弁が多く入るので、主人には標準語で話してもらうようにしています。茨城弁も聞き取りは大分できるようになりました(笑)。
−10年後、20年後、30年後の自分はどうされていると思いますか?
いつとは言えませんが、将来は主人と一緒にニュージーランドにしばらく住みたいと思っています。ネルソンの海の近くに住みたいです。日本とニュージーランドとを行ったり来たりするのが理想です。
やりたいこととしては、今まで行ったことのない国に行ってみたいです。アイルランド、スコットランド、イギリス、北欧など良いですね。クルーズにも憧れています。
あとは、ニュージーランドに戻ったら、マオリ語を勉強してみたいです。私たちが子どもの頃は学校でマオリ語を勉強することがありませんでしたが、今は小学校で一通り勉強します。ニュージーランドの文化の多くをマオリ語が占めていますので、ニュージーランドの新聞にはマオリ語が多く入っています。この間オーストラリアの人に怒られたのですけれど、ニュージーランドの新聞を読もうと思っても読めないと(笑)。マオリの人にとって聖なる場所で普通の人は入ってはいけない場所をタプ(tapu)といいますが、そうした単語がよく新聞に入っていて、ニュージーランドの人でないとわかりにくいでしょうね。ニュージーランド人であるからには、マオリ語は勉強したいです。
私は読書が好きなので、図書館などでの小さい子への読み聞かせもしてみたいですね。
−英語教育で大切にしていることは?
生徒の英語の出来にかかわらず、生徒が自分を表現する場を平等に提供してあげたいと思っています。ちょっと間違えたから駄目ということではなく、まずは何かを書いてみたり、何かを言ってみたり、安心して自分の英語の力を試せる場を提供したいと。生徒が発言したとき、それが私の考えていた答えと違っても、その中から何かをピックアップして、極力多くのものを引き出そうとしているつもりです。
それから点数にはこだわらないということ。他の人との競争よりも自分との競争のほうが大切だと思います。他の人が何点だったかを、生徒はすぐに知りたがりますが、誰が一番いい点数を取ったかなど、私は自分の授業では言わないですね。言いたい人は授業の後に自分で言うでしょうし(笑)。
−茗溪の英語教育の特徴とは?
授業時間が多いです。それから、先生方はとても一生懸命です。わからない生徒や少しつまづいている生徒たちを空いている時間を使って指導しています。そして自分たちの英語がいつもレヴェル・アップするよう努力をしています。長期の休みにはいろいろな講習会に出て、休み明けに学習方法などの情報交換をしたりします。
茗溪は帰国子女が多く、帰国子女のための英語クラス(海外生クラス)があり、私も担当しています。海外生クラスの中でも生徒の滞在年数に差があるので、全員一緒に同じ進め方をすることは難しいのですが、できるだけ個別に課題を与えたりもしています。授業は全て英語で行われます。私は一切日本語を使いませんし、生徒たちも英語で話すことになっています。ただ教室の外は全部日本語という環境で、普段日本語で話している友だち同士が急に英語で、というのは難しい面もありますね。もちろんモティべーションの高い生徒たちは英語で話しています。中学校の間はレギュラー・クラスの生徒たちが海外生クラスに入ることはできませんが、高校生になると、高校で設置されているEEC(Extended English Class)にチャレンジすることができます。また中学校のとき海外生クラスにいたからといって、自動的にEECに上がれるということはありません。
私が受け持っているレギュラー・クラスの英会話の授業では、DVD付きの教科書を使っています。登場人物がいて、スキットがある感じですね。中学2年生、3年生ですとあまり英会話の必要性を感じないようですけれど、それがオーストラリアに行くとなると、ああ頑張らなくちゃと思うみたいです。オーストラリア研修旅行、それからSOSEP(Study Overseas Student Exchange Program)という留学生交換プログラムで留学生が学校に来たり、そういうことがあると、英会話が必要だと気づくようですね。イギリスから来る留学生たちは茗溪の全部の授業には出ないのですが、今週帰ったばかりのニュージーランドから来た留学生たちは日本語を勉強していたので、わかるわからないに関係なく全部の授業を受けました。日本語と英語の両方で会話をして、充実した時間を過ごしたようです。こういうことがあると、茗溪の生徒たちも英会話の大切さに気づきますね。今度の2月にも2人イギリスから留学生が来ます。交換留学ですから、茗溪からは7月に2人ウェールズに行きましたし、また3月にもニュージーランドに2人行くことになっています。これからもっとこういうことが増えていくと良いですね。
−高校2年生でのオーストラリア研修旅行はどのようなものですか?
プログラムの中にファーム・ステイ(農場滞在)が数泊あります。それがとても良い経験になっているみたいです。1家庭に3〜4人生徒がステイしますが、必ずお子さんがいる家庭を選んでいます。受け入れ家族からは「やってみてとても楽しかったのでまた来年も声を掛けてください」と言われることが多いです。生徒の満足度も非常に高いですね。たった2〜3日の滞在なのに、迎えに行くと、抱き合って別れを惜しんでいたり、バスの中で泣いて、向こうの家族も同じように泣いていたり。
ファーム・ステイを私はとても良いと思います。オーストラリアはニュージーランドと同じで、とても親日的な国なんですよ。イギリスの人たちはいまだに日本というとファー・イースト(極東)という感じですが、オーストラリアやニュージーランドでは多くの子どもたちが日本語を勉強していますし、日本は同じ太平洋地域のすぐそこの国というイメージです。そういう親日的な国に行くというのは、生徒にとってとても良いことだと思いますね。
−英語教育を通して生徒に伝えたいことは何でしょうか?
この間ニュージーランドからの留学生を成田まで送っていく際に話したのですが、彼らは日本語を勉強し始めてから英語の難しさに気がついたと言っていました。自分の言語しか知らないよりも、他の国の言語を勉強してわかることは本当に多いです。その中で英語の良さや日本語の良さをわかってもらえればいいなあと思いますし、言葉をしゃべるというのは本当にすごいことなんだとわかってもらえれば良いです。
−フラワー先生は日本語を話すのはもちろん、書くことも完璧でいらっしゃいますが、先生が日本語を勉強される上で苦労されたことなどはありますか?
ありましたねえ! 大学では1、2、3年生のときの日本語の授業のメインは暗記でした。基本センテンスを100%暗記して、試験はどれだけきちんと暗記できているかを見るものでしたから、オウムのように何度も何度も言ってみて、その後は何度も何度もパターン・プラクティスをさせられて・・・。今でも同級生と集まると覚えている文章があり、それを言い出すとうちの夫は「またやっているの!」と笑います。一番覚えているのは、スミスさんともう1人の日本人の会話で、「スミスさん、青い顔をしていますね。どうしましたか?」と言うと、スミスさんが、「夕べ銀座でえびの天ぷらを食べましたが、痛んだえびだったので病気になりました」(笑)。 もうほんとに繰り返しこれをやらされて。今でもニュージーランドに帰ってみんなで集まり、1人が「スミスさん、青い顔を・・・」と言い出すと、みんなが合唱のように「夕べ銀座でえびの天ぷらを・・・」。本当にオウムですよね!
それからやっぱり「数」が難しいです。水が「1杯」で紙が「1枚」。英語なら1から100まで覚えれば何に対しても使えるけれど、日本語は「いちにち」とは言わずに「ついたち」だったり、動物だったら発音が変わる、「いちひき」ではなく「いっぴき、にひき、さんびき」になったり。それを全部覚えなくてはいけないのですごく大変です。
漢字は、トンネルに入って光が見えないという日々が続きました。やっぱり暗記して、書いて練習して、あんまり上手く書けないのですが、今はコンピューターがあるから助かります。読むほうは、専門的なものだったりすると駄目ですが、普通の新聞記事などは読めます。それと、夫が小学校の先生だったので、難しいものをわかりやすく説明するのには慣れていて、とても助かりました。
−では語学学習の秘訣はやはり・・・
そうですね、暗記です。そして暗記した上で使ってみる。会話にはこれが一番重要だと思います。
−普段の生活で、日本語の聞き取りはいかがですか?
そのパターン・プラクティスのおかげで、だいたい大丈夫だったのですが、早口だとやっぱり難しいです。今住んでいるのは筑波山のふもとの方なのですが、近所の人たちとの助け合いの習慣がいまだに残っています。今でも家に近所の人から電話があるとドキドキしてしまいます。あと、夫の祖父の話が難しくて(笑)。最初がわからないとずっとわからなくて、夫のお母さんに「こういうことなのよ」と通訳してもらっていました。上級日本語の授業のようでしたね、あれは。
ところで、この辺りでは子どもたちの七五三も近所の方を呼んで盛大に行います。うちでも食事を出して、子どもたちが皆さんに挨拶して、歌を歌って、お色直しまでしました。あまりお嫁さんのような格好をさせるのは好きではなかったので、私がお色直し用の洋服を縫いました。あの七五三は結構すごかったですね!
−個人的活動・ライフワークについてお聞かせ下さい。
みんなにニュージーランドの良さを伝える活動や、翻訳活動などをやってみたいです。藤沢周平の小説が好きで、いつか翻訳したいと思います。以前『英語教育』(大修館)という雑誌に連載を書いたことがあります。日本での経験を出版することも考えています。洋裁もやってみたいと思います。
スポーツはウォーキングをしています。趣味は読書で、推理小説が好きです。最近読んだ本では、アフリカのボツワナが舞台の「No.1レディーズ探偵社、本日開業―ミス・ラモツエの事件簿〈1〉」 (The No.1 Ladies' Detective Agency)という小説が良かったです。「トワイライト・シリーズ」も好きです。それから、映画も好きですね。ジョン・トラボルタの「フェイス/オフ」(Face/Off) という、善人と悪人が顔を取り換える映画は面白いですよ。近々「借り暮らしのアリエッティ」を上の子と見に行くつもりです。
−茗溪の父母会についてどう思われますか?
皆さん熱心で素敵だと思います。文化祭のレストランやキャンプのボランティアなど、茗溪生活を楽しんでいますね。学校を良くしようとしているたくさんの協力者がいて、学校は幸せだと思います。
今日はお忙しい中、長い時間楽しい話をお聞かせいただきありがとうございました。
数学科:永田眞裕先生 [先生の紹介]

今回は数学科の永田眞裕先生です。
2009年10月31日(土)午後、茗溪学園会議室でインタビューに答えていただきました。
父母会HP編集委員会 長命(29K)、槌尾(29K)、北本(29K)、森田(29K&30K)、茶木(30K)、伊藤(30K)
―ご出身はどちらですか?
埼玉県草加市です。生まれは東京ですが、3歳くらいの時に草加市に引っ越してきて、大学卒業まで過ごしました。中学は草加中に通いました。1学年に13〜15クラスもあるマンモス校でしたが、中2の時に分かれて私は新設校の瀬崎中に移りました。その後埼玉県立春日部高校に入学しました。
高校時代は相撲部に入っていました。たまたま見に行った時、誘われるままに入部してしまいました。小中学校時代から相撲をよく見ていましたし、父親に国技館に数回連れて行ってもらったこともあり、またその時相撲部に体格の大きい人がいなかったことも入部する気になった理由のひとつかもしれません。部員数が少ないにもかかわらず、関東大会まで行きました。僕は身体が小さいので、最初の頃は大変でしたが、当時はそれでもかなり鍛えていたので身体の小ささを結構カバーできました。
大学は東京学芸大学に進学しました。校舎が小金井にありましたので、武蔵野線を使って通学していました。大学時代は書道部にいました。
―茗溪学園との出会いは?
大学4年の冬、指導教官から『茗溪学園で教師を募集しているのでどうですか』と紹介を受けたのが茗溪との出会いです。実は大学院に進むつもりで修士課程の試験に合格していたのですが、経済的な事情もあり、教職を考えていたところでした。「筑波に新しい学校ができて面白そうだし、筑波大学が近いので勉強しようと思えばできるよ」「教職に就いてしまうと他の学校を見る機会も無いので、見てくるだけもいいのでは?」のアドバイスを頂いて見学に行きました。
その日はちょうど高2の寒稽古の時でした。寮に泊めていただき夜遅くまで先生方と話をして、翌朝5時に起床、流れのまま寒稽古に参加しました。寒稽古にはびっくりしましたが、この学園に寮があるところにまず惹かれました。そもそも、僕が学芸大に進学したのも、いろいろな行事を通して生徒と関わることが面白いと思ったからですが、その点、寮のような私服姿で生徒たちと触れ合うことができる場所は魅力的だなと思いました。それで茗溪学園に就職を決めました。
―先生になろうと思ったきっかけは?
中学2年の時、生徒会の役員や会長を務めたのですが、文化祭や卒業生を送る会を主催する度に「学校で創る文化は面白い」と思ったのがきっかけです。学校創設1年目だったのでお手本もなく、全て手探りでの準備でした。行事の前1週間くらいは、先生方が夜9時頃まで準備に付き合って下さったり、暗幕が無いけど予算も無いので黒いラシャ紙で作ったり、そういった準備にとても時間をかけていたのを思い出します。
一緒に活動してくれる大人がいるということがとても嬉しかったですね。
―どうして数学を専門に選んだのですか?
たまたま数学しかできなかったんです。他の科目はよく解らなかった。(笑) 元々、自然科学の発展の歴史に興味がありましたし、数学だけは一旦解らなくなってしまうと大学進学にも支障があるかと思って、頑張って勉強していました。でも、一番の理由は、「学校の先生になれたらいいな」という思いが先にあって、「何を武器にすればいいかな」と考えた時に『数学』を選んだ…ということでしょうか。
―数学を通して生徒に伝えたいことは?
『数学』も昔から人が培ってきた文化であり、昔の人が苦労して整理をしたからこそ、今それを簡単に学ぶ事ができるわけです。人が生きていくということは、生活がどんどん積み重なっていくということなんです。受験科目としての数学ができるようになるだけではなく、そんなことを次の世代に伝えたいですね。
―茗溪の数学教育の特徴を教えてください。
自由に授業をさせてもらえるので、やりたいことが授業内でできる事がいいですね。教科としての進度や大切なこと等は学年毎で話し合われますが、その他については一任されていますから。また、「解り易く教える」工夫はしていますが余り重点をおいていません。(笑) 聞いただけで分かってしまうと、すっかり理解したつもりになって本人の力にならないのです。
数学に限らず、個人課題研究でもそうですが、生徒と一緒に活動することでこちらが刺激を受けて逆に教わることも多い。それが楽しいですね。
―今までの人生で一番嬉しかったことは?
まず、家内との出会いですね。子どもを授かった時にも「これで親になるんだなぁ」と思うと、とても嬉しかったです。それから、昔私が教員として寮に入った時、同時に中1で寮に入ってきた男の子が、今年の3月に結婚したのですが、彼の成長はもちろん社会人になった彼に今こうして会えるというのも嬉しかったですね。
―逆に一番悲しかったことは?
そんなに無いですね。何かアクシデントがあったとしても「成るようになるさ」とか「それだけの努力はするよ」みたいな気持ちで人生を歩んできたからでしょうか。
―将来のことはいかがでしょう?
10年後の自分
まだ定年前なので、仕事をしているといいなと思います。
20年後の自分
やりたいことはいろいろあります。今、小さな畑を作っていて、授業の入ってない日は畑に出ているのですが、20年後も畑仕事をしていたいですね。
それに、学生時代に買った書道用紙がいっぱいあるので、書道をしているかもしれません。
30年後の自分
読み終わってない本を読んでいるでしょうかね。
―先日、高校2年生の担任として生徒を引率して行かれた海外研修旅行はいかがでしたか?
今年のオーストラリア研修旅行では、私も1泊だけファームステイさせていただきました。その時私がお世話になった家族の方たちは、決して贅沢ではないけれど、自分の持っている世界で生活することを楽しんでいる、それがいいなと思いました。私はあまり買い物には行きません。食べるものはそれなりに、野菜は適度に取れる生活をしていますし、着るものがそろっていれば買い物をする必要はあまり感じないのです。
消費することは、ある面産業の発展につながっていくかもしれませんが、使えるものは使ってゴミはできる限り出さない生活というものを考えたいです。オーストラリアでは皆さんそれを自然にやっていますし、却ってそれが自然な生活に思えました。
―ご趣味を教えてください。
茗溪に就職してから歌と出会いました。寮と学校の往復だけの生活に少し危機感を持っていた頃、演劇をされている先生の舞台に行ったのですが、その時「東山動物園の象(※)の歌『ぞうれっしゃ』・親子合唱団員募集」のちらしを見て合唱団に参加しました。
※第二次世界大戦中、日本中の動物園でたくさんの動物が殺されました。しかし、名古屋の東山動物園には必死に守り抜かれた2頭の象が生きていました。そして大戦後、その象を見るために、全国各地からこどもたちを乗せた特別仕立ての「 ぞうれっしゃ 」が走ったそうです。
その活動の中でやはり同じ戦争の話で「731部隊」という中国での出来事を歌う合唱団を知り、思い切って参加することにしました。戦争は決して体験すべきことではありませんが、知らないといけないことだと思います。想像力を駆使して戦争をしない人間を増やしていきたいと思いながら合唱に参加しています。731部隊の歌「悪魔の飽食」はとても重い。だからこそ、こういった歌をいろんな人に聞いてほしいと思っています。今まで南京、北京、アウシュビッツ、ソウルなどで公演しました。今年は4月29日に東京亀有で公演する予定です。
歌では世の中を変えられませんが、戦争の歌を歌い続けることで、人々の心に戦争のない世界への一歩を踏み出す勇気を与えられればいいなと思います。
―個人的な活動、ライフワークについてお聞かせください。
先ほどお話したように週に1回ほど畑仕事をしています。土を触っているとホッとしますね。夏野菜は結構作れますし、苺などは食べられる部分と、虫食いでもジャムにできる部分がありますからね。ほうれん草が作れるようになると一人前だと聞いたことがありますが、最近ようやく「ほうれん草」ができるようになったところです。また、自分でできる活動領域を少しでも広げていければいいなと思います。いかに豊かに力をつけていけるかですね。生きていくということに関する活動を広げていきたいですね。
―父母会活動についての感想をお聞かせください。
楽しみながら様々な意見を出し合えるところがいいと思います。「こういう時はこうすればいい」ということはなくて、同じ内容でもその時の気持ちや各々の子どもによって、受け止め方も違ってきます。教育とはいろいろな人がそれぞれ違った形で、見て感じて、種々多様な意見を出し合っていくことが大切だと思っています。
―お忙しい中、楽しいお話を聞かせていただきまして
本当にありがとうございました。
先生には歌も披露していただきました。
(著作権の関係で歌をお聞かせできないのが残念です。)
皆さんにその歌が届きますように…。
保健体育科:芥川俊英先生 [先生の紹介]

平成21年8月22日、夏合宿の合間の貴重なお時間を頂いて、中学ラグビー部監督、保健体育科の芥川俊英先生にお話を伺いました。芥川先生は茗溪学園の18回生でもあります。生徒としてそして教師としての両立場から見た茗溪学園とは…。
父母会HP編集委員会 赤松(32K)、江口(32K)、川越(32K 34K)、吉村(34K)、皆川(34K)
<サッカー少年がラガーに転向した運命の日>
―ご出身地と小学生の頃のことを教えてください。
両親は山口県の出身で、僕も山口で生まれ、0歳の時に父の仕事の都合で、新松戸に引っ越してきました。今でも僕にとっての故郷は山口で、瀬戸内海で捕れた新鮮な魚料理が大好きです。小学校の頃は、とにかく運動大好きな元気な子どもでした。1年生の時からチームに入ってサッカーを始め、その頃の将来の夢は、Jリーガーでした。
―先生は、茗溪学園ご出身ですが、茗渓に進学された理由は?
中学に入ってもサッカーがやりたかったので、サッカーの強い都内の某私立中を受験したいと父に頼みました。父はその学校を受験することを許してはくれたのですが、その時に出された条件が「茗溪学園も受験すること」でした。
サッカーも続けながら塾に通って受験勉強し、結果2校とも合格しました。どちらに入学するのか悩みましたが、決め手になった一つが通学事情です。都内に行く電車は満員電車、茗溪に行く電車は下りなので空いているということと、もう一つは、学校の説明会に行くうちに、自由な校風に惹かれ、「この学校に6年間行くと楽しいだろうなぁ...」と茗溪に入学することを決めました。
―サッカー少年だった先生が、ラグビーに転向されたきっかけは?
最初はサッカー部に入るつもりでしたので、仮入部期間にサッカー部の見学に行こうと思って張り切ってグランドに行きました。ですが、たまたまその日サッカー部が休みで、グラウンドではラグビー部が練習していました。(おお!これがラグビーか…。)その時は運動着に着替えてスタンバイもしていたので、せっかくなのでじゃあやってみようか…ということで、ラグビーを体験させてもらいました。
そうしたら、もう、それが面白くて、サッカーと違って、ボールを蹴ってもいいし、手に持って走ってもいいという自由さがとにかく新鮮で魅力的でした。また、他の1年生達が、「ここのラグビーは全国大会で優勝したらしいよ」などと話していて、「全国!!」という言葉に惹かれて…(笑) どうせやるなら全国目指したいと思って、ラグビーをやろうと決めて家に帰って父に報告しました。
実は、父はもともとラグビーファンで、私には「ラグビーをやれ。茗溪に行け。」と直接は言わなかったのですが、結果的に父が望む方向に進んでしまい、気付いたら父の術中に完全にはめられていたというか、父は内心、嬉しかったでしょうね。
<「ア・ク・タ・ガ・ワー!」花園で耳に届いた天使の声援>
―ラグビー部に入部されてからはどうでしたか?
1年生の時は、とにかく「ラグビーを楽しむ」というスタンスでした。そのスタンスは今も変わってないですが、当時は1年生の中には経験者が少なくて、ラグビーについて何もわからない子たちが皆で楽しんで毎日練習していました。
中1と上級生では、体格と実力の差があまりに大きいので、一緒に練習する事はありません。中3くらいになるとかなり上手くて、1年生はそれを尊敬の眼差しで見て、先輩たちに憧れながら、1年生の仲間と楽しみながら練習を頑張る、という感じでした。
茗溪のラグビーは、「Enjoy!」ということを重視しています。練習の厳しさはありますが、厳しい部分も含めて楽しむ姿勢がありますね。
―ラグビー部での一番の想い出は?
それはもう、高校2年生の時に、花園(全国大会)に行けたことです。花園のグラウンドに立ったら2万人もの観衆の声援が聞こえてきて、もう緊張して鳥肌が立ちました。そうしたら、聞こえてきたんですよ。「ア・ク・タ・ガ・ワー〜!!!」という、当時担任だった内窪洋子先生の甲高い声が。2万人もいる声援の中で、そんな聞こえるはずがないと思ったんですけど、鳥肌立った状態から、さっと正気に戻りました。
<ラッキーマンだった受験〜大学時代>
―受験勉強はいつぐらいからされましたか?
ラグビー部を引退した高3の11月末(県大会で優勝を逸したため) からセンター試験まで死に物狂いで、学校の授業時間も含めて1日に13時間勉強しました。当時、英語が苦手で文章を読んでも解らなかったので、「これは、単語だ!」と思いたち、1日単語帳の日というのを作って、13時間、ずーっと単語帳を見て、1日だけで7〜800位の単語を覚えました。その後は普通に文章も読めるようになりました。英語科の先生には反則技と言われるかもしれませんが(笑)。
センター試験では筑波大学体育専門学群の受験資格ぎりぎりの点数が取れ、実技で挽回出来るか?といった感じで臨みました。当時は、実技が3種目だったので、専門のラグビーと、基礎で剣道と器械体操を選択しました。茗溪は体育の授業が競技で分かれていて、それぞれ専門の先生の授業を受けていたので、すでに大学受験レベルになっていたんですね。さらに実技の試験までの間、剣道の村嶋先生や体操の内窪誠先生に特別に指導をしていただき、おかげで合格できました。茗溪でなかったら多分筑波大に行けなかったと思います。
―大学生活はいかがでしたか?
ラグビーは大学に入ってからも続けていたのですが、高校の時のラグビーの方がよかったな、とずっとあまり楽しめませんでした。もともと体育の先生を目指して大学に入ったのですが、途中で一時、その気持ちすらもあやふやになっていました。
ところが、大学3年生の時に新しいコーチが来て、そのコーチは、海外で実践されているテクニックやトレーニング方法などを日本に持ち帰った方で、とても厳しかったものの、またラグビーが面白くなりました。そして今度はその知識を子どもたちに教えたいと、先生になろうという気持ちを思い出しました。
その気持ちが決定的になったのは、教育実習の時です。それまでほとんど指導経験はなかったのですが、ラグビーを教えたり、ホームルームや給食の時に生徒たちと触れあったりするのが本当に楽しく充実していて、「教師っていいなぁ。よし、教師になろう。」という気持ちが固まりました。しかし、もう少しラグビーの勉強をしてから先生なろうと決めて、大学院のラグビーコーチング研究室に進学しました。
<本物に触れることが出来る茗溪学園の教育>
―就職されてからはどうでしたか?
教育実習では見えてこなかったいろいろな部分が見えてきたり、いろいろやらなくてはいけない事が沢山あったりするので、本当に忙しいなぁ、と感じます。でも、ラグビーを教えているのがとにかく楽しいです。皆が上手くなっていくのを見たり、苦しくても頑張っている姿を見たり、実はラグビーって、運動があまり上手ではない子もできるスポーツなんです。それぞれの子にあったポジションがある。で、そういう運動の苦手な子が、足の速い子に混ざって一緒に、一生懸命がんばってプレーして、試合に勝って嬉しそうな顔をして戻ってくる。そういう姿を見ると、本当に嬉しいですね。
―茗溪の体育教育の特徴は?
専門の先生がそれぞれいる事が一番大きいですよね。他の学校だったら、専門じゃないもの、例えば僕がバトミントンやバスケットを教えたりしないといけないのですけれど、茗溪の授業では、専門の先生がきちんと指導をするので、そこが特徴というかすごいと思います。器械体操もそうですし、柔道・剣道なども先生はみな日本でもトップレベルの方なので、そんな先生に教わってるっていうことは、本当に貴重なことだと思います。
―体育を通して生徒に伝えたいことはなんでしょうか?
「熱くなる事を恥ずかしく思わないで」校技大会の時に持つのと同じ気持ちを、授業中にも持ってほしいです。
<現在〜今後>
―日頃大切にしていることと今後目指しているものはありますか?
日々の生活で一番大切にしていることは、常に感謝する、ということですね。また、若者文化にアンテナを張って、生徒から「普段から色々話せる人なんだ。」と思われるようにしています。座右のことばとしては、「一人反面教師」。過去の自分を振り返って、いけない所を今の自分が直していっているといった感じでしょうか。
10年後、20年後の自分は、いつまでも気持ちを若く、歳をとっても今のように自分で動きながら、自分自身で生徒に見せる指導スタイルを維持していたいですね。
―茗溪の父母や父母会活動に対しての率直な意見、感想をお聞かせください。
子供の成長にとって一番良いこと、大事なことは何なのかということを常に考えて頂きたいです。大人が手を貸してあげることは簡単ですけれども、ただ見守るべき時もありますし、失敗を体験させることも大切だと思うんです。危険なことは怒らないといけませんけどね...。
いろいろと楽しい、貴重なお話をいただきました。
お忙しい中、本当にどうもありがとうございました。

今回は社会科の関寿子先生です。
2009年6月20日(土)午後、大変お忙しい中、茗溪学園5年C組の教室でインタビューに答えていただきました。
父母会HP編集委員会 吉田(直)(29K)、阪東(29K)、茶木(30K)、伊藤(30K)、赤松(32K)、江口(32K)
−関先生のご出身は?
群馬県高崎市で生まれ、20年間そちらで生活しました。小学校、中学校は公立で学びました。高校は自転車で10キロ離れた群馬県立の高校に通いました。大学ではどうしても地理が学びたいと考え、担任と相談し、立正大学文学部地理学科に進学しました。2年間は高崎線で30分かけ熊谷キャンパスに通い、3,4年は都内のキャンパスで学び、憧れの都会で一人暮らしをしました。
−大学で地理を勉強したいという希望を持ったのは何かきっかけがあったのですか?
中学生の頃から、地図帳を見るのが大好きでした。地理の先生はまるで世界へ行ってきたかのように授業をされ、聞いていると行かなくても旅行をした気分です。そんな授業が楽しくて、なんとなく地理を教える職業がおもしろいものだと感じていました。一番初めに地理が好きになったのは多分この先生の影響だと思います。ただ、その頃はまだ幼く自分が何をして生きていくかはわかりませんでした。
高校に進学すると、1年の担任が地理の先生でした。何故そこまで地理を追求するのかと思うような先生でした。海外旅行をたくさん経験し、そのお土産を景品に授業を盛り上げていました。こういう地理の授業を私もやってみたい、教員もいいかなと考え始めました。両親は自宅から通えて地理が学べる群馬大学教育学部、社会科の専攻はどうかと考えたようですが、私は教育学よりも地理を学びたいと考えました。
もっと遡れば、3,4歳の時に両親から、誕生日のプレゼントに世界地図のパズルをもらったことでしょうか。角が丸くなるくらい遊びました。それが最初のきっかけだったかもしれません。
−大学ではどのようなことを学びましたか。
大学の専門課程で理科系的なアプローチをする『自然地理学』に出会いました。卒論は毎月1回草津温泉の決めたポイントに行き、湯出量や水温の測定をしました。梅雨や雪解け水、季節の変化の影響などを1年間調査、研究しました。私が調査した内容はすでに多くの研究がされ、二番煎じでしたが、実際に自分で行って調査することに価値がありました。
−大学卒業後の進路は?
専門課程で出会った『自然地理学』はとても楽しく、もう少し学びたい、実験施設のある大学院へ進学したいと考えたのです。大学の指導教員と相談し、筑波大学を希望しました。そこから猛勉強しました。図書館で朝8時から夜8時まで勉強し、帰宅後、9時半から12時ぐらいまで勉強して1時に就寝。10分後に良く寝たと眼が覚めて、それ以後眠れません。10分睡眠しただけでも、その後寝てしまうのが怖いくらいでした。試験前は大きなプレッシャーにつぶされそうになっていました。その猛勉強のかいがあり、見事、現役で合格!大学の先生にもびっくりされました。
−『自然地理学』と大学で学ばれた地理はどう違うのですか?
地理は大きく分けると自然の地形や気候を対象にする『自然地理分野』と人を対象にする『人文地理分野』があります。大学3年生の時、図書館で「地下水の世界」という素晴らしい本に出会いました。地下ってすごいな、見えないところも化学分析でわかるのだと感心した瞬間に、これだ!とひらめいて、自然地理のほうへどんどん学び進んでいきました。
榧根勇著 日本放送出版協会
−大学院ではどのような研究をしたのですか?
関東平野一円の既存の温泉施設の深度1000から1500メートルにどんな水質の水があるのか、100箇所くらいからサンプリングして分析研究をしました。『自然地理学』を勉強したいと進学した訳ですが、私は高校3年生の履修時に数学、化学を選択しておらず、モルって?イオンって何?まずそこから勉強を始めなくてはいけませんでした。分析機器を使いこなすのは本当に苦労で、先輩に教えてもらいながら、やっとついていく毎日が続き、勉強するのは本当に大変だなあと思いながら、2年かけて修士論文を書きあげ卒業しました。
−教師になったきっかけは?
大学院の卒業をひかえ、急遽、就職活動を始めました。訪問した先の鉄道、旅行、地図関係はみごと断わられ、すでに時遅しでした。夏になっており、教員採用試験出願時期も過ぎており、悩み、ちょっと放浪の旅に出ました。放浪といっても2泊3日、戸隠への旅です。環境学を簡略化した、『ネイチャーゲーム』ってご存知ですか?アメリカで開発され、身体を使って自然を知ろうという体験プログラムで、私は以前から興味を持っていました。それを普及している団体の主催で、指導員の資格がとれるセミナーだったので参加してみました。
そこで参加者から群馬県の「さくらプラン」を教えてもらいました。32人以上の学級に担任ともう一人、教師を入れ、チームティーチングで、手厚く授業や生活指導をしていくというプランでした。さっそく群馬県に登録し、卒業と同時に高崎市の小学1年生のクラスで学習支援、生活支援等を始めました。勤務して改めて、中学生か高校生に地理を伝えたいと思うようになりました。
働きながら東京都の私学教員適性検査という試験に挑戦し、高い成績を得ました。いくつかの学校からお誘いを受けましたが、自宅が高崎だと言うと交通費の限度額から断られてしまいました。ひとつだけ、交通費の限度額はあるが、それでも良ければと話しをいただきました。私はとにかく実績を積みたいと考え、1年で小学校を退職し、次の4月から都内の私学の地理の非常勤講師として働き始めました。時間割はかなり考慮していただきましたが、どうしても1限にしか入らない授業ができ、朝3時半起きという生活になりました。過酷な生活でしたが、自分がやりたいことができる幸せと、両親が私のやりたいことに情熱をそそげる環境を支えてくれたことにより続けられたのだと思います。
−茗溪学園との出会いは?
実は、私は“つくば”という街がとても好きで、ここで仕事ができたらいいな、という想いは学生の頃から漠然とありました。群馬や東京で働いている時にも、頭の隅に“つくば”がありました。茨城県私学協会のホームページをずっとチェックし続けていたら、茗溪学園地理選任の募集があったのです。採用面接では、地図を見てどんなフィールドワークを提案できるかということも聞かれました。もともと地図を見ること、等高線、地形図が大好きなので色々なプランを答えることができました。
−茗溪学園の教員になってみていかがですか?
茗溪学園はやりたいと考えたことを実際に試させてもらえます。例えば、試験問題作りでも、「この問題でやりたいと思ったら、やってごらん」と後押しをして下さる先生方がたくさんいらっしゃいます。生徒も、すごく勉強熱心で、吸収しようという意欲の高い子たちが多く、スポンジみたいだなと思います。スポンジをぎゅっとつぶして、水の上にぽんと置くと水を吸い取りますね。そんな生徒を見ていると、本当に茗溪学園で働くことができて幸せだと感じています。
担任は30回生が初めてです。入学した頃、「先生!」と近づいてくる彼らにわくわくし、この子達とずっと一緒に歩んでいけるのだと期待が大きく、大変というよりも毎日楽しいです。小学生だとまだ子どもですが、大学生だともう育っている…その間をつなぐ6年間は子どもから大人になる時期で、一緒に過ごせることが中高の教師の醍醐味で、やめられないな、と思います。でもお預かりしている以上、責任重大な仕事だと常に感じています。
−茗渓学園の地理教育の特徴をもう少しお話ください。
フィールドワークが特徴だと思います。その中でも一番特徴的なのが中学2年の筑波山キャンプで行なうフィールドワークです。以前は筑波山麓にある梨園で、お話を聞き、梨狩りをして帰ってくるというフィールドワークでしたが、台風で中止になり、梨園の方には事前の準備も含め、大変なご迷惑をかけしてまったことがありました。そこで迷惑をかけずに、楽しいフィールドワークができないか、他の先生方と一緒に悩み、筑波大学の恩師に相談してみると、「地下水の調査はどうか」とアドバイスがありました。試験紙を使えば色の変化で結果が分かり易く、水質を調査するのなら、その前に土地利用の調査もしようということになりました。私たち教師も暑い中何日も調査対象地に通って、綿密に下調べをし、事前の準備をしました。とにかく、本物を見て触れて、知識だけの頭でっかちではなく、体も大きく成長して欲しいというのが茗溪学園の地理のフィールドワークだと考えています。
−地理の授業を通して生徒に伝えたい事は何ですか?
地理は暗記すれば点が取れると考えているかもしれませんが、そうじゃないよと言いたいです。地理は私たちの生活に密接に結びついています。どんな例がいいかな?気候にしましょう。昔ながらの家の造りは気候とつながっています。熱帯では日本と違う造りをしている家がたくさんあり、それはなぜか?読みとるためには気候を理解できないといけません。食べ物もそうです。お米を食べている人たちは、お米が取れるところで生活しています。ではお米が取れるところはどこ?たくさん雨が降るところでなければだめです。このように地理は、色々な人や物と切っても切り離せないつながりを考える学問だと思います。だから机の上で点を取るための暗記ではなく、もっと世界に目を向け、しっかりと学習してもらいたいです。生きていくこと全部が地理と関係するということを伝えたいです。
よく生徒は「歴史は好き、だけど地理は暗記だから嫌い。」と言います。受験勉強して入学してくる1年生は地理が嫌なようです。たくさん勉強してよく知識が入っていて、私も驚かされることがありますが、私はもっと考える地理、ひらめきの地理を大切にしたいと考えています。頭で理解したことを自分の言葉で書き出させたいと考え、記述式の問題を出すように心がけています。回答を読むと面白い事が書いてあり、柔軟で、伸びていく可能性を感じられとても楽しいです。
−部活の指導についてお聞かせください。
地歴部を指導しています。部員が留学してしまったので、一度休部という形になっていました。運動部だけでなく、文化部も充実させようという学校の方針もあり、私が中心になって、部員を集めることになりました。授業の時に声をかけてみましたが、なかなか希望者が来ません。困ったなあと思っていたら、32回生が「ぼくは歴史が好きです。」と入部して来ました。その後彼の仲間が2人入部して3人になりました。巡検に行ってみようと、3人を連れて宍塚の里山や国土地理院に行きました。現在部員は5人です。最近の活動のひとつに北条から平沢地区まで歩いて、おいしい“北条米”のことを調べ、今ではシャッター街になってしまった北条地区の町おこしに奮闘されている方にお会いしてお話を伺いました。地域に密着した地理や歴史について調べ、文化祭で展示、発表をしました。
−先生は旅行がお好きだとお聞きしました。
英語に対する苦手意識が強く、学生の頃は韓国、台湾、中国、シンガポール、フィリピン、インドネシアとずっとアジア圏に行っていました。当時は一人旅が多かったのですが、最近は一人で回る体力があまりなくなり、旅行先の治安の問題もありますから、友達や妹など必ず2人以上で一緒に出かけています。
オーストラリアには高校2年生の生徒の海外研修旅行と同じようなプログラムで2週間、語学研修でホームステイを経験しました。ちょっと英語に勢いがついてアイスランドにも行きました。
マダガスカル島では市場の様子にカルチャーショックを受けました。肉や魚を冷蔵庫に入れないのです。すごいと思いました。残念ながら40度を超える熱が出て、マダガスカル人とフランス人の医者さんの言葉が入り混ざる中、強い薬で熱は一晩で下がったのですが、大変な思いをしました。中学校の先生の“ワオキツネザル”“バオバブの木”、そんな話を断片的に憶えていて、就職した年のボーナスを全部つぎ込んで行ったマダガスカルですが、3分の2は寝て過ごし、大西洋にお金を投げてきたようです。その後エジプト、ニューカレドニアに行きました。
最近行ったのはマーシャル諸島です。本当はツバルに行きたかったのですが、飛行機の便を考えると滞在が長すぎ無理です。でも、いつか最後の楽園に行きたいですね。私はせっかちで、時間に追われることは苦痛ではありませんが、旅先ではのんびり長く滞在したいです。今は英語を勉強して、海外に長く滞在しても大丈夫になりたいと思っていますが、なかなか高校生のように頭にすんなり入らず大変です。国内旅行もいいかなと思うようになりました。2月末には宮古島、5月の連休は平泉に行きました。鍾乳洞が好きで、龍泉洞に行きました。日本語で様々な質問ができ、聞きたいことがきちんと聞けるので、なんて素敵なのだろうと思います。
授業では撮ってきた写真を見せて、例えばインドネシアのバリ島だったらイスラム教徒が多いインドネシアでありながら、バリ島はヒンドゥー教徒が多く住んでいる、なんて話をすると、生徒も「へえ。」と話を聞いてくれます。楽しみながら学べる地理の授業をやっています。私があまりに熱く興奮状態で語るので、生徒の冷静な眼差しを感じると「ちょっと今日はやりすぎたかしら」と思う瞬間もあります。高校生になると受験を視野に入れた授業になっていくので、体力勝負ですが、中学生には楽しく授業させていただいています。
−今までで一番嬉しかったこと・悲しかったことはどんなことですか?
嬉しいことはたくさんあります。高校時代に弓道部で全国大会やインターハイに出場できたこと、その後は大学や大学院に合格できたこと、就職できたことも嬉しかったです。これらに順番をつけることはなかなか難しいですが、茗溪学園に来たことは私の人生を大きく変えるような出来事だったと思います。私という人間を大きく成長させてくれる場所がここだと考えています。一番嬉しいことといわれたらそのことかもしれません。
悲しいこと…私は楽天的な性格で、つらいとか悲しいとか、一瞬感じているのですが…悲しくてしょうがないこと…ないかな?幸せですね。
−個人的なライフワークはありますか?
生徒とともに、海外研修旅行に行きますので、とにかく英語をできるようしたいと考えて、一生懸命勉強をしています。私はおしゃべりですが、外国に行くとあれもこれも聞きたいと思うのに、口が閉じてしまうことがあります。とにかく世界の人と話をしたいと思い、今は英語の勉強をしています。帰宅後、夕食のあと、9、10時から1時間ぐらいは、英語の勉強をしています。
少し前はテニスをしていました。最近は体力的に無理なので、お休みです。新聞が好きで、熟読します。情報の中から、マイナーな映画や、ドキュメンタリー上映を見つけると、いてもたってもいられなくなって、東京に出かけたりします。
−10年後、20年後、30年後の予想をしてみてください。
10年後も茗渓で働いていると思います。何をしているかなあ?自分のために1年ぐらいは勉強したいなあと思っています。結婚して子供も欲しいと思います。働きながらまずは自分のために勉強し、家庭も大切にしたい、そんな10年後かな?できるでしょうかね?
20年後は、もっと色々なものが見えていると思います。教育に関しても、もっと深い違った意味でかかわれる自分、全体的にサポートできる教員でありたいと思っています。20年後もここで働いていたいですね。
残念ながら30年後はもう退職ですね。旅行すると、退職した時どこで生活したいかなって、考えます。例えば、アイスランドは寒いから永住は無理、韓国は食事がおいしいけれど、ちょっと騒々しい?なんて思います。旅行を通じて永住の地を探し、一番いいと思えるところで、一生とはいわなくても、一ヶ月、一年、のんびり過ごしながら、環境にかかわる仕事や啓発活動ができたら楽しいだろうなあと思います。30年後、地球がどうなっているか分かりませんが、人々の暮らしはずっと続いているはずです。そんな活動もしていきたいとは思っています。
−茗溪学園の父母や父母会活動に対しての率直なご意見をお聞かせください。
地域と学校と家庭で連携をとっていきましょうと言われますが、茗溪学園では学校と家庭の連絡が密に行われ、学校で困ったことがあれば助けていただき、協力的だと感じます。今回のように教員を取材して紹介してくださるホームページもいい企画だと思います。父母会も活発で素晴らしいと思います。学校って学校だけじゃうまく回らず、ご父母のご協力がなければやっていけない部分もたくさんあります。素敵な関係ができている学校だと思います。この場をお借りしていつもお世話になっている感謝の気持ちを表したいと思います。ありがとうございます。
−お忙しい中、お時間をいただきありがとうございました。
英語科:山下太郎先生 [先生の紹介]

今回は英語科の山下太郎先生です。
2008年12月7日(日)午後、顧問をしていらっしゃる中学サッカー部の試合の後、茗溪学園4年B組の教室でインタビューに答えていただきました。
父母会HP編集委員会 内田(28K)、齋藤(28K)、高木(29K)、森田(29K&30K)、茶木(30K)、伊藤(30K)
異文化との出会い
―子供の頃の話を聞かせてください。
生まれは東京都八王子市です。母の仕事の都合で幼稚園時代の3年半を石川県の能登半島の先端にある磯町で過ごしました。小学1年で八王子市に戻り5年生までそこで過ごしました。父がとても野球好きで、小さい頃すりこぎ棒をバットにかごをヘルメットに見立ててよく遊んでくれました。自分から頼んで、最初に買ってもらったおもちゃはバットとグローブでした。小学校の頃は少年野球チームに入り友達と熱中していました。
6年生の頃、母の仕事の都合でブラジルのサンパウロへ行き、中学2年生までの3年間そこで過ごしました。母が現地で、国際協力機構(JICA)と外務省の共同プロジェクトによる「ブラジル人に日本語を教えるシステム」の立ち上げを行うことになったのです。父は日本に仕事があり妹は小さかったので、身の回りのことが自分でできるようになっていた私が母についていくことになりました。
サンパウロでは主に日本人学校に通っていました。日本語がメインの生活でしたが現地の子供も通ってきてましたのでブラジル語と英語も必要でした。私が最初に外国語に接した時に2ヶ国語が同時に始まりましたので、頭の中がすごく混乱しました。そのため外国語を学ぶことが嫌いになって、当時英語は苦手でした。
サンパウロに到着してすぐに現地の野球チームに入りました。ブラジルはサッカーが盛んですが、日本人がたくさんいる地域では野球をしている人もいました。その後サンパウロの少年野球の代表チームにも入りました。その時に日本の代表チームがサンパウロに遠征に来て試合をする機会がありました。
ブラジル滞在中の後半に少しサッカーも経験しました。ブラジルといえばサンバとサッカーが有名ですが、ワールドカップ開催中は、たくさんの人が応援のために仕事を休むんです。試合に勝てばお祝いで仕事を休み、負けても残念だったと言って休みます。お金をためるより、サンバやサッカーの応援にお金を使っていました。その様子を見て、ブラジルの人は生きることを本当に楽しんでいると思いました。
―離れて暮らしていた時の父親の存在はどういうものでしたか?
私にとって父の存在が薄くなるようなことは決してありませんでした。父は半年から1年に1回、ブラジルにグローブを持ってやって来ました。その時にいろいろな話をたくさんしましたし、次に会うときまでの野球のフォームの課題も出してくれました。そして、「母親と2人なのだから、おかあさんの助けをしていくんだよ。」などいくつかのポイントをアドバイスして帰っていく。たとえ離れていても父は私にとって大きな存在でした。
また、両親は私の成長を記録しているのですが、太郎と名づけた由来から始まって、私の生い立ちや、その時々に両親がどういう思いで育ててきたのかが綴られています。父は今も続きを書いています。子供の頃にはその有り難さが分かりませんでしたが、今はこれ以上の宝物はないと思っています。そして私が親になったらもっと有り難くなるのかなと思います。
―サンパウロでカルチャーショックはありましたか?
最初は日本の友達と会えなくなったのが寂しかったですね。だんだん現地に友達が出来てくると、いろいろな人に会え、いろいろな体験ができ、ブラジルに来てよかったという思いが強くなりました。日本人学校には優秀な生徒がたくさんおり、勉強はついていくのがとても大変だったのですが、私を伸ばしてくれた場所だったと感じています。年に2〜3回、日本人学校の敷地内の農園で皆でコーヒーの実を収穫したりしました。コーヒーの実は生のまま口に含んでも甘くて美味しいですよ。
治安があまりよくない所もありましたので、通学はスクールバスが家の前から学校まで送迎してくれました。それでも、住んでいたホテルの玄関で、日本人の駐在員がピストルで後ろから撃たれて車を奪われる事件がありました。事件の後はとても怖かったです。また、通っていた学校にはよく泥棒が入りました。そのため外に出る時には気をつけることが自然と身につきました。
帰国した時の逆カルチャーショックはほとんどありませんでした。ただ、帰国したのが中学3年の時でしたので高校受験が大変だったことと、小学校の時に野球を一緒にしていた仲間が私より上手になっていたことでしょうか。
教員への道
―どのような高校生時代でしたか?
野球ばかりしていました。野球部の顧問の先生にひたすら走らされました。ワァー!と大声を出しながら走るのです。夏の合宿では100mダッシュ30往復が当たり前のようにありました。部員は58名いたのですが1年生から順番に倒れていきました。キャプテンだった時には最後まで倒れられないと思い先生をにらみ続けながら走っていました。その先生が「山下は優秀な選手ではなかったが、1番性格のいいキャプテンだった。」と私の結婚式でスピーチしてくださいました。先生は私の良さも弱さもとても理解してくださっていました。そして、精神的にすごく鍛えてくださいました。この出会いがなければ私は今でもやさしいだけの人間だったでしょう。
この時期、一番なりたくないと思っていた職業が教員でした。これは両親が教員であることが影響していると思うのですが、反発というよりは、特に父をライバルと見ていたからです。父が大きな大きな目標だったのです。どこに行っても父はすごく存在感がありました。でも、息子としてはいつまでたっても父の下というのは納得いかなかった。そして、同じ職業では父を超えることは出来ないと思っていました。父を超えるための職業を考え、外交官になろうと思いました。サンパウロで、日本の領事館の方がリーダーシップを取っている姿が子供心にかっこよく感じていたのでしょう。
外交官になるには、まずは英語力が必要ですが、ブラジルで感じた苦手意識がなかなか抜けず苦労しました。苦手な英語力を上げるために最初に頑張って単語を覚え、それからひたすら問題集を解いていきました。するとある時期に成績がドンと上がり、その後はどんどん英語を好きになっていきました。
―大学生時代はどのようでしたか?
外交官を目指して獨協大学の英語学科に入学しました。入学してすぐ野球部の練習を見にグラウンドに行ったのですが、野球部の隣でアメリカンフットボール部がものすごい気合で練習している光景を見て、私の中の熱い血が騒ぎました。男として強い人になりたいという気持ちがあり、スポーツをやるからには気合を入れてやりたいと思っていましたので迷わず飛び込みました。1年でランニングバック(攻撃側でボールを持って敵陣に走りこむのが主な役割)のポジションになりましたが、またまた走る量が半端ではなかったです。入ってから、野球とアメフトは共通点がたくさんあることを知りました。両方ともアメリカ発祥のスポーツなので動き方に分業制という考え方があり、攻撃と守備の動きが全くちがうのです。
―外交官志望だったのになぜ教師になろうと思ったのですか?
私は人間が大好きで、『たくさんの人』と友達になりたいと思っていました。大学の同級生に帰国子女や英語が流暢に話せる人が多勢いて、彼らは外国人ともすぐ友達になれました。その当時、私は英語で思うように話せなかったので、もっと英語が話せるようになるとたくさんの国の人と友達になれると思いました。
そこで、英語の勉強と人との出会いを求めて、バックパッカーをしながらいろいろな国に出かけました。海外旅行はその後も休みが取れると行っていますので、これまでに合計30〜40カ国を訪れたかと思います。外国で『たくさんの人』と出会って、ますます人が好きになり、もっと『たくさんの人』と出会いたくなりました。そして私は『たくさんの人』と出会えると幸せを感じると気づき、『たくさんの人』を相手にする職業に就きたいと思い、『たくさんの人』と交われる職業を考えた時に・・・素直に「教員になりたい。」と思いました。
それと、母校の高校に野球のコーチに行き、私が高校時代に教室でもグラウンドでも一生懸命やっていて楽しかった事を思い出しました。その頃にまた戻りたい、もしくは生徒たちが一生懸命やる姿を見たいと思いました。
もう1つ、アルバイトをしていた時、一緒に働いていた高校生がしっかりとした目標を持ち大学進学を目指していました。彼の英語の勉強を手助けしているうちに、自分が出来ることで高校生の助けになるのはうれしいと思いました。高校生にもっと会ってみたいと思ったのは、彼との出会いが大きかったです。
―教員を決意してからどのようなことをしましたか?
教員になるために、「英語力を高めること」と「教えること」を勉強したいと思い、獨協大学の交換留学制度を利用することにしました。2度目の試験に合格して、イギリスのエセックス大学に1年間留学しました。ロンドンから電車で北に1時間くらい行ったのどかな所にある大学です。そこで英語学で世界的権威のビビアン・クック先生が指導教官に就いてくださり、教員になるために必要な「言語学」を学びました。
![]() テネシー大学の文化祭では、大学中をパレードの行進があり、留学生はみな自国の服などを着て参加しました。 |
そして留学期間を含めて6年間の大学生活の後、栃木県の高校に3年間勤めました。
さらに英語教育のスキルを磨くために、アメリカのテネシー大学の大学院に入学し、2年間学びました。大学院生活の後半に留学生のお世話をするセクションでアルバイトをしました。テネシーに来る留学生を空港に迎えに行ったりしましたので、ほとんどの留学生と知り合いになりました。とても楽しくて面白い経験でした。
茗溪学園との出会い
―茗溪学園との出会いは?
就職活動は、テネシーの大学院在学中にインターネットを通して行いました。家族や友人の住む東京からのアクセスがよくて、エセックス大学やテネシー大学のように自然に恵まれた環境にある学校を探しました。修士論文の執筆と並行して就職活動をしていましたので、就職の面接試験のために3日間だけ帰国し、すぐにテネシーに戻りました。茗溪学園での面接で印象的だったのは、「泳げますか?」と聞かれたことです。その時は英語科の教員の面接でなぜ水泳について聞かれるのか、ただ不思議に思ったのですが、「私の家系は祖父の代まで漁師をしていたので、泳ぎには自信があります。」と答えました。茗溪学園に勤めて高校1年生の臨海訓練が大事な行事であることがわかり、あの時の返事で採用が決まったのかと思っています。
―日常生活で大事にしていることは?
1つはなるべく笑顔でいること。もう1つは、今年結婚をして1人ではなくなったので、怪我や大きな病気などして心配をかけないように身体を大事にすることです。まずは家族を増やしたいです。それから皆が健康であればいいですね。
運動はずっと続けていきたいと思っています。今は、妻とバドミントンやゴルフをしています。今年は一緒にマラソン大会に参加しました。私はボールが転がっていればどこまでも走っていきますので、種目はある程度妻に合わせて、2人でいろいろなスポーツをしていきたいと思っています。
![]() 山本有三文学碑 |
―英語教育を通して生徒に伝えたいことは?
茗溪学園の英語教育の特徴は、生徒達が英語を実際に使う機会をたくさん用意していることです。中学1年、2年で「英語劇」を行います。中学3年の「クロスカルチュラルトーク」では、JICAの筑波国際センターから30〜40名の外国人研修生を招いて母国の話などをしていただきます。生徒達は研修生ととても楽しそうに話をし、「外国の人と話ができてよかった。」「もっと話したかった。」などの感想を持ちます。自分から英語を使ってみようという場を作ったり、教室から飛び出したりする授業が特徴です。
英語を使えることによって自分自身に自信を持つことができ、ものおじしないで外国人とも話せるようになりました。生徒達には、『たくさんの人』とコミュニケーションをとってもらいたいと考えています。コミュニケーションを通じて、その人、その国の文化を知り、お互いをもっともっと知る機会を得てほしいと考えています。そのためには、生徒にはまずは英語を話せるようになってもらいたいと望んでいます。英語をきっかけとして、一つの言語が使えることが自信になり、『たくさんの人』と話し合え、理解できるようになると考えています。
私が英語を学び始めたきっかけが「人と話をしたい」でした。日本人だけでも優しい人、面白い人がたくさんいます。それが英語を話せるようになると、世界中に友達が出来ますし、自分に自信がつきます。そのことを伝えたいです。
―今日はお忙しいところを長時間、楽しいお話をどうもありがとうございました。

結婚のお祝いに、生徒たちが黒板いっぱいに書いたメッセージ

今回は数学科の鈴木誠先生です。
2008年3月1日(土)茗溪学園会議室にてインタビューに答えていただきました。
父母会HP編集委員会 塚田(28K)、内田(28K)、齊藤(28K)、小川(28K)、吉田(直)(29K)、長命(29K)、森田(29K)
―ご出身はどちらですか?
昭和39年真壁町(2005年近隣の町村と合併し、現在は桜川市)で生まれ、地元の小学校、中学校を卒業しました。高校は茨城県立下館第一高等学校で、大学(昭和58年入学)、大学院は筑波大学です。学生の頃は「月に1回は東京に出よう」という会があり、刺激を受けに東京へ出かけて行ったのを覚えています。つくばも大きく変わりましたね。生まれも育ちも茨城県です。つくばに住んで20年になります。
大学在学中は茗溪学園の存在を知りませんでした。大学院2年生の時、茗溪学園に勤務されていた研究室の先輩(数学科の島先生)から「ちょっと、見に来ないか」と誘っていただき、見学に行きました。その翌日、校長先生から「昨日は、来てくださりどうもありがとうございました」と直々にお電話をいただきました。もしかして私は期待されているのではという有難い気持ちになり、就職を決めました。後で知った事ですが、校長先生は見学に来られた皆さんに電話をなさっていたということでした。
―茗溪学園との出会いは?
赴任してみると、茗溪学園の理念は私の予備知識以上のものでした。単なる進学校とは違っていました。「進路指導」と、「人間性育成」のどちらも重視し、様々な教育方法を双方に上手に織り交ぜているカリキュラムであることに驚きました。キャンプ、合唱、英語劇、短期入寮、臨海訓練、研修旅行、個人課題研究‥‥色々なことをやるんだなぁと感心しました。
自分自身の中学校生活を振り返って考えてみると、茗溪学園には私がイメージしていた「先生と生徒の関係」に異なるものがありました。出来る限り生徒と向き合いながら、なぜなのかを納得するまで話し合い、お互いに理解を深めてゆくのです。これは、生徒自身もそれを要求しているところがあるのです。この「先生と生徒の関係」に新鮮なものを感じつつ、『これは大変な学校に入っちゃったなぁ』という印象も持ちました。
―先生になろうと思ったきっかけは?
高校3年生くらいから漠然と思っていたのかもしれません。自分の進路を明確に決めたのは大学4年生の時です。教育実習を経験したことにより、大学院に進みさらに学んでから教員になろうと強く決心しました。でも、僕が茗溪生だったら、教員になっていなかったかもしれません。なぜなら僕が高校生のとき、身近で働いている大人として意識していたのは、自分の親と学校の先生くらいですからね。茗溪生のようにもっと幅広く職業を知るチャンスが与えられていたら、僕の中にある違う面をみつけることができたのではと思います。
茗溪学園の生徒は職業観を育む職業観セミナーや、自分の進路についていろいろ考えたりすることができる恵まれた環境にあります。それらのプログラムに応えてくれる子どもたちがいるというのが大きいですね。生徒たちの世界が広がって輝いた顔が見られた時、教師としてとても嬉しいです。
―茗溪学園の数学科の方針

<この先になっても使うであろう基本的な『計算力』は、何回もテストをして身につけていきます。また、例題で説明を受けてからそれと同様な問題を解くばかりではなく、まだ説明不足の事柄を含んだ問題や、工夫しなければ解けない他の分野と絡んだ問題に「さあ、やってみよう!」と取り組んでみます。そして、様々な解き方を通して『考える力』をつけていきます。それらを通して、わかること・解けることの嬉しさを伝えられればよいのではないかと思っています。
授業の中では、そのような問題に試行錯誤しながら「考える」ことが重要なのであって、全員が正解することを求めているわけではないのです。答え合わせのときに、ここまでは考えついたが、あと一歩足りなかったところについて、なるほどと気がついてくれればよいのです。それを次に活かせるよう頭の中を整理してくれれば。ただ、生徒の中に正解でなかったことに対してひどく落ち込むような子が増えているような気がしているので、問題の難易度の加減を、慎重に設定する必要があると思います。問題が簡単すぎてもいけないし、解けなくて苦しい思いをさせすぎてもいけないです。
―毎日数学浸けの生活、お辛くないですか?
もともと、僕は数学が好きだから教師になったのです。「数学って、やってみると面白いじゃん」みたいなものを生徒たちに伝えたいです。5年生(高校2年生)になると、選ぶ進路によって数学から遠ざかる生徒がいます。そのような生徒たちには、「今日まで使った教科書は処分してもかまいません。でも、君たちが大人になった時、自分の本棚に数学の本が1冊あると部屋の雰囲気が引き締まりますよ。その気になった時は、いつでも『良い本』を紹介します。」と言っています。
―オーストラリアの研修旅行
28回生より研修旅行先がイギリスからオーストラリアに変わりました。初めてずくめでしたので、何が起こっても不思議ではないと腹をくくっていました。しかし、研修旅行は実に順調でした。旅行社もしっかり準備して下さったし、先生方の下準備も良かったのかもしれません。でも、なによりも生徒がしっかりしてくれていたから成功したのだと思っています。茗溪学園には「打てば響く」、期待に応えてくれる生徒たちがいるのです。
―現在の楽しみは?
1歳5ヶ月になった息子と遊ぶことです。生まれたばかりの頃は、初めての子育てで、意志の疎通が出来ないので戸惑いました。成長するにともなって、にこにこ笑ったり表情が豊かになると可愛いものですね。最近では帰宅すると、玄関まで出てきて僕に飛びついてきます。本当に可愛いです。
―ご趣味をきかせてください。
読書です。読書好きになった動機は、高校時代にさかのぼりますが、苦手な国語の克服でした。本格的に読むようになったのは、大学に入ってからです。ジャンルは問わず何でも読みます。数学の本も読みますし、小説も幅広く読みます。茗溪の読書好きの先生と情報交換をしています。最近では、社会科の柚木先生に紹介された『生物と無生物のあいだ』(福岡伸一著)を読みました。本を紹介するテレビ番組も情報源です。番組中、ジャンルの違うまったく接点がなさそうな3人のゲストが、1冊の本を通して楽しそうに会話を成立させているのです。本の力というものは面白いですね。
間もなく春休みになりますが、休みに入ったら何を読もうか今から考えているところです。
―本当に読書がお好きなのですね。
僕は1日8時間睡眠をとると体調がベストなのです。でも6時間睡眠の人と比べると、計算上、自分自身の時間を1日2時間損していることになります。
今のペースで月3冊読むとして、あと30年生きられるとすると約1000冊の本を読むことができます。1000冊しか読めないのだから、6時間睡眠の人より持ち時間が少ない中、読む本は上手にチョイスしないともったいないことになるぞと思っています。
―先生とスポーツ
中学時代は野球部と駅伝部に所属していました。1キロメートルを3分、3キロメートルは10分で走りました。現在、茗溪学園軟式野球部(第52回全国軟式野球大会ベスト8、第62回わか杉国体初出場初優勝)の顧問をしています。試合の引率をするのですが、必死に挑んでいる生徒たちの姿を見ていると、彼らから元気をもらえます。授業中の顔とは全然違う側面をみせてもらえるのもいいですね。引率というよりも、子どもたちに連れて行ってもらっている感じです。有難いです。
―茗溪学園の父母や父母活動に対して
ご父母の皆さんの協力に支えられて茗溪の教育はうまくいっているのではないかと思っています。例えば、1年生の里見キャンプ、2年生の筑波山キャンプなどは、ご父母の協力なしでは成り立たないと思っています。5年生(高校2年生)の短期入寮(例年2月上旬、5泊6日の寮生活)では、早朝の「突寒ラグビー(男子)」、「剣道の寒稽古(女子)」でお世話になった大学生に、ご父母が炊き出しをしてふるまってくださいました。その活動の様子などを拝見していますと、きっと、ご父母の方々も楽しんでボランティアをされているのではないかと思いました。そんなところがとてもよいのではないかと思います。
―お忙しい中、楽しいお話を聞かせていただきましてありがとうございました。
国語科:鈴野高志先生 [先生の紹介]

今回は国語科の鈴野高志先生です。
2007年7月26日(木)茗溪学園 第3AVE教室でインタビューに答えていただきました。
父母会HP編集委員会 吉田(慶)(29K)、野口(28K)、内田(28K)、石原(28K)、塚田(28K)
―鈴野先生のご出身は?
生まれは東京都大田区の矢口渡(やぐちのわたし)というところです。小学校の2年生まで住んでいて、神奈川県の相模原に引っ越しました。今はベッドタウンになっていますが、当時はもう自然そのものという所でした。東京の下町からいきなりそういうところに来て、見る物、聞く物が本当に図鑑のとおりだと思いました。カマキリの卵を見つけた時は、珍しくて、枝ごと家に持ち帰ったら、2、3日後に玄関中に小さなカマキリがいっぱいで大騒ぎをしました。近くに小さな山があって、毎日友達と探検ごっこのようなことをしていましたね。蛇を見つけては逃げ出したり、そういうことが楽しい思い出です。
中学2年生の時、今度は埼玉県岩槻市(現在のさいたま市)に引っ越しました。人形の町で、3月のひな祭りと5月のお節句の前だけはたいへん賑やかな町になるんですが、それを過ぎると静かな町です。
転校を2回しましたが、今考えるとすでに出来あがっている集団の中に入っていくというのは、苦手でしたね。あまり自分から積極的に話しかける方では無く、待っている方だったので、転校して2日くらいは自分の席にじっと座っている感じでした。周りの子といろいろ話すようになるのは3日目くらいでした。
―大学時代からつくばに住み始めて20年
大学が筑波大学でしたので、もうここが一番長いです。こんなに長く住むとは思っていませんでした。私がつくばに来たのは1986年で科学万博の次の年でしたから、それからどんどん変わり、TXが入ってきたら、今は全く違う世界になってきましたね。
―国語科の教師になったきっかけは?
自分から人に対して声をかけたりするのは苦手なくせに、自分が何かをやったことに対し、相手が笑うという反応をみるのが好きでした。落語をやった(筑波大で落語研究会に入った)のも、サークル勧誘誌を見ていた時に「人前で話せるのは一生の宝」というフレーズが目に入って、ああこれは楽しそうだなと思ったからです。もともと「笑点」などが好きでしたのでやってみようかなという気になりました。当時、さだまさしという歌手が好きでしたが、彼が大学時代に落研に所属しており、それでステージトークが上手になったという話を聞き、そういうあこがれもあったのかもしれません。人前で何かしゃべれたら楽しいなと言う気持ちと、それと言葉に対する興味がもともとありました。
大学の学部が「日・日」(日本語・日本文化学類)というところで、外国人に日本語を教えることを専門に学ぶ学部でした。そこでは、私が中学、高校で習ったような「こ、き、く、くる、くれ、こよ」といった文法の勉強ではなく、ある意味で実験しながら言葉を入れ替えてそれがどう伝わるか考えたりする。そのような勉強がすごく楽しかったので、最初は日本語教師になろうと考えました。ところが、学生時代に土浦の塾でアルバイトをした時に、純粋な生徒達とのやりとりがとても楽しくて、子供に教えるのもいいなあと思うようになりました。当時、男子生徒はみな丸刈りで、同じように見える丸刈りの生徒達にもそれぞれに個性があるのだと感じたからです。それとやはり言葉に対する興味ですね。研究者という道もありましたが教師を選びました。
―茗溪学園との出会い
就職活動をしている時、私立の教員採用の一斉テストを受けて、その結果を見た茗溪学園から声がかかり面接を受けました。その時、初代岡本校長からいろいろとお話を伺い、国語の教師としても、また留学生が多いので日本語の教師としても仕事が出来るということで、これほど自分に合ったところはないんじゃないかと思いました。大学在学中はつくばに住んでいたので、茗溪学園はラグビーで日本一になった学校だということは知っていたのですが、どのような学校なのかほとんど予備知識はありませんでした。岡本校長のお話に引き込まれたようなイメージです。お話の中で「全国から夢を持った先生たちが集まっている学校ですよ。」ということも聞いて、その点にもとても惹かれました。

―茗溪学園の国語教育の特徴
茗溪学園の国語科の授業は、大学でも習ったことがない独特の授業法でした。最初の年に中3の副担任になり、いきなり中3を教えたのですが、生徒がすでに茗溪の授業法で2年間勉強してきているので、僕よりよっぽどよく知っているんです。たとえば授業で、小説の主人公がいて、その相手が人だったり、人生の壁だったり、そういう要素がぶつかり合って、物事を構成していく、そのような図式を「二つの勢力」という言い表し方をするのですが、生徒の方から先に「先生、これは二つの勢力ということですよね」と言われてしまい、教科室へ帰ってから先輩の先生に確認をしたりしていました。
茗溪父母会のホームページ「先生インタビュー」の杉山明信先生の記事にお名前が出てきていますが、大西忠治先生が茗溪学園においでになった時にこのようにやりましょうとご指導なさったと聞きました。(注:「国語科:杉山明信先生」2003年7月26日掲載)
学年が変わっても、先生が変わっても、茗溪の現代文の授業は、基本的に同じ教え方で、中学から高校まで一貫しています。
―国語の教育を通して生徒に伝えたいことは
「言葉の重さと面白さ」です。ちょっとしたことで人を傷つけてしまったり、取り返しのつかないことを言ってしまったりすることがあると思います。だから、大事な場面では本当に言葉を選んで話さなければいけないですね。また、最近インターネット上で行われている、匿名で人を誹謗中傷するような行為、それがいかに愚かなことであるかも伝えていきたいと思います。一方で言葉というのは、ちょっと違うだけでニュアンスが変わってくる、そういった面白さもあると思います。たとえばヘリコプターから畑に向かって種をまくときは「畑」のあとの助詞は「に」も「へ」もつかえますが、自分自身が畑の中にいて種をまいているときは「畑に」としか言えないですね。
どちらかというと決まりだからこうしなさいというよりは、何でこのような言い方が出てきたのかという現象を楽しんでいます。前は「あきらかにおかしい」と言っていたのを、今の子供達が「あきらかおかしい」という言い方をしているのを聞きます。最近の「ビミョー」という言葉の使い方も、また「どんだけー」とか、力が抜けますよね。今の流行の日本語は純粋に面白いですね。自分たちが若かった頃もそのような流行の言葉はあったと思いますし・・・。
子供達の話し言葉にメールが大きく影響して、携帯電話の画面の限られた四角の中で発達というか、退化というかそういうものかもしれません。まさにそういうのが面白いと思いますね。ただし、使い分けできることが大切で、教員に対しても、教室で授業中の話し方と、食堂で向かい合わせに食事をしながら話をしているときの話し方は違って良いわけで、場面に応じた話し方が出来るのかということが課題ですね。
―時代と共に子供は変わりましたか?
茗溪で16年になりますが、世の中が変わっているほど、茗溪生は根っこの部分で変わっていないと思います。
―大学院で学んで
自分の中で良かったことは、茗溪学園で教師となって10年経った2000年に、一年間休みを頂いて大学院に行かせてもらったことです。茗溪の教員は途中でそのように大学院に行く人も多いのです。卒業してすぐに大学院に進むのではなく、茗溪で教員生活を経験してそれから大学院に行ったことに大きな意義がありました。大学院では専攻が国語教育だったので、茗溪のやり方を一部紹介したり、いろいろな研究会で授業法を教わったり、学会に出席する機会もありました。普段の授業も楽しかったです。その一年間を終えて現場に戻ってきたときに、力のついた自分を実感しました。(国語教育の)教科の部分が自分でしっかりしてくると生徒もついてくるというか、授業に深みが出てくるというか・・・。担任の仕事も部活も進路指導も大事ですが、その中で教科が一番大事なのだと気付きました。
―鈴野先生と留学生
茗溪学園にやってくる留学生と関わっているのは、大学で学んだ日本語教師、日本語教育の仕事として希望したことにあります。茗溪学園のように常に留学生がいるという状況は茗溪の生徒達にとって良いことだと思いますし、留学生もとてもたくさんのことを吸収して帰って行きます。最初は和式のトイレにびっくりしたり、給食の時についてくる紙のスプーンに感動したりして、最後は納豆が大好きになって帰って行く生徒もいました。素直に感動している様子を見ていると、彼らを鏡として自分自身が日本文化を知るような気持ちになります。茗溪の生徒達も、単に外国人、外国人という見方をしなくなって、どこの国にもいろいろな人がいるのだということが自然に分かるようになりますね。
また、父母の方の日本語ボランティアはたいへんありがたいです。留学生にとって、学校の先生には言えないことを相談するなど勉強以外の部分でいろいろと助けて頂いています。
―鈴野先生といえば落研ですが・・
現在は落研(落語研究会)の顧問です。一番初めは演劇部の顧問、それからサッカー部、テニス部、野球部、そして卓球部もやりました。運動部と並行して落研の顧問をしていたこともありました。実は、茗溪学園に就職してすぐに生徒の前で落語をやったところ、生徒から「落研を作りましょう」という声があがり、落語研究会ができたんです。そのころはラグビー部と兼部という生徒もいました。覚える時間がないので紙を見ながら高座に上がったりしていました。落語にもブームがあって、部員がいなくなって休部の時期もあったのですが、ある生徒に「落研があるから茗溪を受験して入学したのに・・・」と言われて、部員一人で再開しました。その生徒は卒業しましたが、時々漫才の台本を送ってきてくれます。去年、今の5年生がコンビが吉本企画のM1甲子園(高校生の漫才大会)茨城大会に出場して優勝しましたが、その台本は彼の作品です。今年も、このコンビは2年連続の県大会優勝を果たしました。ただし全国大会の壁は厚く本選には2年連続出場することはできませんでした。悩みどころはM1甲子園が落語ではなく、漫才の大会だということです。高校生の落語の大会はないのです。中学、高校では落語をやっている学校が少ないのかもしれません。
―個人的な活動、ライフワーク等は?
ライフワークというほどではないけれど、落語(鈴野先生の高座名は『香車亭年五楼』だそうです)が出来なくはなりたくない。以前は筑波大学の学園祭にOBとして出場をしていましたが、最近は同期の人たちが来なくなってちょっとさびしいです。一年に一回くらいは機会を見つけて発表をしてみたいですね。ときどき桐創祭ではやっています。家で落語の練習をやっていると子供がそれを真似したりして楽しいです。
落語の最大の弱点は最初から聞かないと分からないことです。話を途中から聞き始めても、登場人物が誰で、いまどうしようとしているか。テレビのように絵を見て分かるのではなく、しゃべっている言葉しか手掛かりがないので・・・。落語は、まさに想像力の世界です。今、テレビや映画でちょっとした落語ブームです。聞くのも楽しいですが、私はやるのが楽しいです。
―今までの人生で一番嬉しかったことは?
今までで嬉しかったことは何かなと考えると、結婚してちょっとたった頃に「ああ、(結婚して)よかったなぁ」という思いがじわじわと来たり、子供が産まれて、その産まれた瞬間よりもまたちょっとたった頃に「ああ、幸せだなぁ」としみじみと感じたりしていました。大学に受かった時も、その瞬間よりも、あとで感じるタイプなんですね。(笑)。
―余談ですが・・・
実はもともと何かを書いて人に見せるのが好きだったのです。
小学生の時に、野球漫画を描いていたんです。(ここで鈴野先生作の野球漫画を見せていただきました。)巨人の星とか侍ジャイアンツとかが大好きだったので、それらにかなり似た感じの漫画です。友達に見せた時の反応が楽しかったですね。これは小5から中2くらいまでの間に描いたものです。結局、完結しないまま終わってしまいましたが・・・。(笑)

それと、これは大学の4年間に書いていた絵日記です。(家計簿に書かれたイラストつき日記4年分を見せていただきました。)これも友達に見せる日記だったんです。今でいえば、ブログに近いですね。定期的に友達が読みに来るので、ある程度読み手を意識して書いています。
今、学級通信のようなものが苦でないのは、こういうことが根底にあるのかなと思います。自分が書いたものを読んでもらって、そこから何か感じてもらえるのがすごく嬉しいですね。
―今までの人生で悲しかったことは?
いろいろとありますけれど、悲しくて悲しくて大泣きしたとかいうことは無いです。あえて言えば、大学を出て仕事を始めたばかりの頃は仕事上の壁が断続的に来て辛かったことはあります。
―日常の生活で一番大切にしていることは?
自分の子供と過ごす時間ですね。とても楽しいです。今だけなのかもしれないですけれども・・・。子供が泣いたり、私が叱ったりするのも含めて接しているのが本当に楽しいです。上が幼稚園で5歳の男の子、下が2歳の女の子です。兄妹でもその性格は全然違いますね。また自分が親になって、子供に対する気持ちが変わりました。まさに、親の気持ちが分かるようになりました。
―10年後の自分・ 20年後の自分・ 30年後の自分は?
10年後は現役で、20年後は定年の頃で、やはり教師は楽しいので、現役でいたいですね。30年後はどこかで「お話のおじさん」をしているかもしれません。子供達を集めて『お話会』をしてみたいですね。落語に限らず、表情でお話を聞かせられるような・・・。考えると楽しいですね。
―茗溪学園の父母や父母会活動に対しての率直な意見、感想は
すごいなあと思います。特に1、2年生のキャンプボランティアに来てくださる父母のパワーはいつも感激します。学校のファンだって言ってくださる方がたくさんいるのはとてもありがたいし、力になります。担任1年目の頃は失敗ばかりでしたが、父母の方々にその1年間は支えていただいていたという思いが強いです。教員にとって応援団になってくださる父母会があるということは幸せだと思います。
―鈴野先生、本日は長い間楽しいお話をありがとうございました。

今回は、理科の穐本貴通先生です。
2006年10月21日茗溪学園会議室にて、インタビューにお答えいただきました。きめ細かな教育指導、地球科学に対するひたむきな研究姿勢、そして暖かなお人柄に触れてください。
父母会HP編集委員会 内田(28K)、塚田(28K)、野口(28K・29K・31K)、吉田慶(29K)、吉田直(29K)
―先生のご出身をお聞かせください。
昭和40年(1965)、母の実家の愛知県岡崎市で生まれ、3歳の時、父の実家がある福島県の会津地方に引越しをし、大学に進学するまで耶麻郡塩川町(平成18年喜多方市と合併)で育ちました。中学校の校歌にも「盆地の真ん中」というくだりがあるのですが、小、中学時代を過ごした塩川町は周りを山に囲まれた盆地の真ん中にありました。高校は会津若松市にある『福島県立会津高等学校』です。
―現在テニス部の顧問をされていますが、先生とテニスとの出会いは?
テニスは高校から始めました。動機は忘れてしまいましたが、もともと球技が好きでしたし、何か運動がしたかったのだと思います。
高校時代のテニス部は、残念ながらチームとしてはまとまらなかったですね。市外からの遠距離電車通学の部員と、そうでない部員がいて、僕を含め遠距離通学組は、電車の時刻表を気にしながらの部活動でしたので、最後の片付けができずに下校していました。練習をしていても、どうしても二つのグループに分かれてしまい、団体戦の応援も形だけで、互いに気持ちを込めた声援を送れなかったと思います。

ですから今、茗溪学園のテニス部にはチームとしてまとまるということを目指して欲しいと思っています。まとまれたチームは強くなります。同じ目標に向かって心を一つにするということがとても大きな力を与えてくれるのだと思います。
筑波大学に入学して間もなく、意気投合した数名の友人と、大学の宿舎の周りにあるテニスコートを使ってサークル活動をしました。大学ではテニスを通して友達付き合いを広げ、サークルの幹部としても働かせてもらいました。サークル活動を運営する立場を経験して初めて、人をまとめるということは大変だとわかった感じでした。今では、テニスは一生楽しんでいきたいスポーツになりました。
―筑波大学を志望され、ご専門の地球科学(以下地学)を専攻されたお話をお願いします。
筑波大学の第一学郡自然学類に所属し、最終的に地学に落ち着きました。もともと数学が好きだったので数学の専攻を考えていたのですが、悩んだ末に抽象的なものではなく、具体的な現象を扱い、様々な自然景観を調査できる地学を専攻しました。
高校時代まで学ぶ機会のなかった地学は、授業の度に目からうろこが落ちました。今では小学生でも知っているような、例えば地球表面はプレートで覆われていて、それが動いて地震などを引き起こすということさえ知りませんでしたから・・・。たくさんのことを学ぶにつれて、ますます地学が面白くなっていきました。
大学では水文学(すいもんがく)という分野を専攻しました。あまり知られていない学問で、文字だけ見ると「水の文学ですか?」と聞かれてしまうのですが、水はどのように循環しているのか、地下水はどのように流れているのか、などを探る学問分野です。
―地学に対する驚き、面白さから教師という職業を選ばれたのですか?
教師になる大きなきっかけを与えてくれたのは、茗溪学園で体験した教育実習です。その時、6年B組の担任で地学を担当されていた熊野先生に、大変お世話になりました。当初は教員になりたいというより、資格を持っていればどこかで役に立つのではというぐらいの気持ちでした。

ところが、実際に授業でこちらに輝く視線を向けてくる生徒たちに接し、そのやり取りが本当に楽しかったので、それから真剣に教職を考え始めました。就職のために地質コンサルタント会社などの企業訪問もしてみましたが、それには思い切れず、教員採用を視野に入れて、さらに2年間筑波大学の大学院で勉強させてもらいました。その間、茗溪学園で地学の非常勤講師をさせていただきました。大学の同級生である岩間先生も一緒で、いろいろお世話になりました。10回生、11回生が中学2年生の頃です。とても楽しく勤めさせてもらいました。
―では、そのまま茗溪学園の先生になられたのですか?
教員試験は茨城県と福島県を受験し、幸運にも、どちらも合格をいただきました。大学院卒業後、郷里である福島県の高校に赴任しました。地学は開講されていなかったので、主に化学と生物を担当しました。赴任校の生徒は女子だけでしたので、理科の一般教養というか、台所などで関わってくるような話題を中心に考えました。音が出る、色が出る、においがするなど五感で体感できるような実験を度々行いました。楽しく何かを学び取ってくれればと思って授業を行っていました。でも、一番楽しんでいたのは自分だったのかもしれません。
赴任して四年目、僕にとって最初の卒業生を送り出す前年の秋に、熊野先生からお電話をいただきました。先生が大学で教鞭をとられることになり、代わりに僕に茗溪学園の教師をやってみないかというお話でした。福島を離れることに迷いもありましたが、公立ではなかなか開講されていない地学を、茗溪学園に行けば教えられるという思いで、茨城にもどる決断をしました。

ー茗溪学園の理科教育の特徴は何ですか?
『本物に触れる』です。物理、化学、生物は実験や実習をたくさん行っています。地学では野外実習を実施しており、理屈だけではなく、五感で感じてもらえるように努めてます。実生活の中で気象情報や地震などが話題なる場面があれば、そういうところに敏感に反応できるようになってもらえるよう授業に取り組んでいます。地球全体をひとつのシステムとして考えられるような授業が展開できたらいいのですが・・・。自分自身ももっと勉強をして、生徒たちと一緒に考えを深めていくことができたらいいなあと思っています。茗溪学園には疑問を投げかけると、次の時間までにその答えを持ってくる生徒がいます。知的好奇心の高い生徒が多いですね。
―生徒の進路指導についてお聞かせください。
きちんと目的を持って、こういうことをやりたいのでこの大学に行きたいと言ってくる生徒は、勉強に向かう姿勢も違いますね。授業に限らず、クラブ活動や課外活動でも、何か打ち込めるものを持っている生徒は、充実した生活を送ってくれています。それに対して何をやっていいのか分からない状態で、勉強にもあまり身が入らないという生徒には、どうアドバイスしようかと一番苦労するところですね。
自分自身も思い描いていた進路とは違う方向に進んできました。しかしながら、多くの先生との出会いがあり、その中でいろいろなアドバイスを受けながら、最終的には自分で考えて結論を出してきたので、後悔せず歩んでくることができたのだと思います。
茗溪学園で行っている職業観セミナー、裁判所見学、農業巡検などでは、実際に働いている現場を見たり、お話しを伺う機会があり、進路を考えるヒントになると思います。自分で見たり聞いたりすることで、自身の適性も感じることができるでしょう。生徒たちもこれからたくさんの出会いがあると思います。何にでも興味を持ってチャンスを生かせるような素地を学生時代に作りあげられたらいいなあと思っています。
―全力で生徒たちと関わりながらも、『水文学』のご研究も続けていらっしゃると伺いましたが、ふたつのことのバランスは難しくはないですか?
自分のやりたいことはどうしても最後になってしまいますが、少しずつ時間をみつけて勉強会に出席するなど、恩師の先生方や近隣の研究者の方々から刺激をいただいています。
先日の集まりは、大学の恩師である池田宏先生が中心となった勉強会でした。河川地形、河川生態学、土木工学など、様々な分野の方が集まって、河川のあるべき姿とはどのようなものだろうかなどをテーマに勉強しました。かつての川原には、石がごろごろしていて、子供たちはそこで遊んだり、芋煮をしたりしました。昨今、コンクリートで護岸してしまった川に自然を取り戻すことが求められたりしています。でも、人間が関わっていることなので、人間に都合の良いものを選択することになるのかと思います。開発やそれに伴う破壊が問題になりますが、手を加えることがどの程度までなら許されるのかというところを見つけることが大切なのでしょうね。そういうことを考える際に参考になるような視点を、地学の授業の中で少しでも伝えられたらよいと思っています。
―いままでで一番楽しかったことは何ですか?
楽しかったことに順番をつけたことがないので、難しい質問ですね。一生を終えるときにわかるのでしょうか。

あっ、想像もしていなかった凄い景色を見たときには震えてしまいますね。情報の発達は良いような悪いような・・・。あらかじめ写真などで見て知ってしまったものは、感動は半減してしまいます。新婚旅行でアフリカに皆既日食を見に行きましたが、途中に立ち寄ったケープタウンで、天辺が平らで壁のようにそそり立つテーブルマウンテンの姿を目の当たりにしたときには圧倒されましたね。メインだった日食は、ビデオカメラの操作に気を取られ、肝心なところを見逃してしまいました。
そうそう、里美キャンプで生徒たちと星の観察をし、天の川の説明の時に、タイミングよく流れ星がビューンと流れて、「今のが流れ星です!」なんて説明させてもらいました。こんな感じで『うれしかったこと』はたくさんあります。
―日常の生活で大切になさっていることは何ですか?
『偽らないということ』でしょうか。自分は嘘をつくのは下手だと思いますから。嘘をついた後には、結局は自分が悩みますからね。生徒の前でも自分の理想の姿をつくったりしない、あまり教師らしくない教員なのかもしれないです。ですから、ありのままで生活しているという感じかもしれません。
―穐本先生のライフワークを教えてください。
これだということははっきりしていませんが、フィールドワークをしていきたいです。頭の中で考えているだけではつまらないですから。実際の自然現象の中で起こっていることは必ずしもテキストに書かれていることとは一致しません。現在は遠くまで出かける時間もないので、まずは茨城県南地域でみられる自然現象などを調べていきたいです。科学部の地質班で活動している徒たちと一緒に出かけたいですね。
先程お話しに出ました勉強会を主催されている池田先生は、川にはひとつひとつ個性があって現場に行ってじっくり見てみないと、なかなか理解できないとのことでした。河川災害の危険性の判断など、先生お一人では限界があるので、『川の町医者』を作りたいと考えられています。と言っても、先生は精力的に日本全都道府県を調査のため歩かれていますが・・・。それぞれの地元で生活している方に少しでも興味を持って川の様子の変化を見てもらい、それを解釈できるようになってほしいとおっしゃられていました。好きな研究を好きなだけされている先生は、とても活き活きとされていらっしゃいます。先々、自分もそうありたいと思います。
―では、20年後のご自分はどのようにされているでしょうか?
その質問は、普段考えたことがなかったですね。出来れば10年後くらいには、中高生にこれを伝えたら満足というような、納得のいく教材を作り上げられたらと思います。ちょっと遅いでしょうか。
20年後だと、池田先生が理想になるかもしれないですね。先生はその道の方々を集めて議論を戦わせる場を設けてくださったりしています。先生ご自身も研究を楽しまれ、それを周りの方にお伝えするということも楽しまれていらっしゃいます。あのような形で社会貢献できたらいいなあという理想の姿です。
―父母として茗溪学園の行事参加はとても楽しみですが、先生は父母会活動についてどのようにお感じになっていらっしゃいますか?
学年独自のカラーを出され、いろいろと活動されており、ご苦労様です。ご父母と教師の距離は、あまり近すぎても、逆に普段まったく連絡をとらないというのもよろしくないと思います。お互いの顔が見えていて、子供に関しての相談が出来るというような関係がよいのかなあと思います。茗溪学園の場合、父母会総会を含め行事にもご父母の参加がたくさんありご協力をいただいておりますので、非常にありがたいと思っております。

―長時間にわたり、ありがとうございました。

今回は、社会科の柚木太先生です。
2006年3月11日(土)茗溪学園101小教室にて、インタビューにお答えいただきました。社会科教育に対する熱心な取り組みやお考えを聞かせていただいております。どうぞお楽しみください。
父母会HP編集委員会 内田(28K)、斉藤(28K)、塚田(28K)、森田(29K)、伊藤(30K)
−幼少のころはどのように過ごされましたか?
母の実家のある山形県米沢で生まれまして、その後は父の仕事の関係で小学校高学年になるまで各地を転々とし、3年以上同じところに住んでいませんでした。引っ越しについては、そういうものだと思ってましたので、転校の緊張というのはあまりなかったと記憶しています。今となっては各地の地域性みたいなものを懐かしく思い出します。
小学1〜3年生の頃は千葉県船橋市の郊外に住んでいまして、学校が終わると、小学校の校庭でドッヂボールや野球などをして遊んだり、友達と自転車で遠くまで出かけ、道端にいる虫や田んぼのザリガニを捕まえたりして遊んでいました。ほとんど自然の中での生活でした。
小学4・5年生の頃は東京都北区にいました。山手線を見下ろす都市部に移りまして、環境がまったく違うのですが、同じように自転車で上野や巣鴨あたりまで友人と遠出していました。そのころ通っていた小学校の近くの児童館に、膨大な数の漫画本があり、「鉄腕アトム」「火の鳥」「ちかいの魔球」「ハリスの旋風」などを夢中で読みました。特に「火の鳥」に強く影響を受け、歴史に興味を持つようになりました。地理的に近かったことから、友達と自転車で王子の紙の博物館や神田の交通博物館、上野の科学博物館などに行ったりしました。今から思うと知的な刺激を多く受けたように思います。
最後に、小学6年生の時に茨城県伊奈町に引っ越しました。当時、身長がすごく高かったことから、小学校のミニバスケットのチームに入り、それから大学時代まで、学生時代はバスケットをやっていました。再び自然の中というか、田んぼの中での生活でしたが、ひたすらバスケットボールに明け暮れていました。とにかく体を作る一年間だったように思います。

−柚木先生は茗溪学園ご出身ですが、入学されたきっかけは?
小学6年生の時の担任の先生が東京教育大学出身の先生で、「新しい学校だけど入ってみたらどうかな?」と勧めてくれたのと、バスケットチームの先輩が茗溪学園に入っていて、「出来て間もない学校で、いろんなことをやる。グラウンドをつくったり、芝を植えたり」というような話を聞いて、面白そうだと思いました。考えたり迷ったりということはあまりなかったですね。
−茗溪学園時代はどのように過ごされましたか?
私が入学した年に、初めて中学1年生から高校3年生までそろいました。学校全体が、何もないところから自分たちで作っていくという雰囲気だったので新鮮な感じがしました。今もそうだと思うのですが、上級生が下級生を大事にする気風を感じました。
当時、文化祭の後夜祭では、キャンプファィヤーをしていました。その時の高校3年生が最後にみんなで大声で歌っているのを見て、中学3年生のころ、「これが青春か〜。」と思ったことを記憶しています。文化祭をはじめとして、行事がたくさんで、忙しく、楽しく過ごしていました。
部活はバスケット。まさにもう部活三昧でしたね。特に高校2年から3年にかけて、部活がものすごく楽しかったです。
当時、バスケットにとても情熱のある筑波大学の大学院生がコーチに来てくださっていて、この方が、アメリカ各地を歩いてバスケットボールの歴史を調べたものや、日本にバスケットボールが入ってきたいきさつを取材したものを、自分でカメラを回してビデオに撮られていて、部活のミーティングで上映してくれました。コーチの話されることが難しく感じたように思うのですが、そんなことより何より、人間的に惹かれました。このコーチの指導のもと、試合でめきめきと勝ち上がるようになりました。県大会などに行くようになると、小学校時代のミニバスケットで練習試合とか大会で顔を合わせた選手達と再会するようになりました。相手チームに対して、勝った負けたとか、ライバルというよりバスケットで結ばれた仲間という感じがして、それがまた良かったですね。
もう1つ、勘違いから始まったんですけど、中学3年から高校1年にかけて音楽に熱中しました。ギターが大好きな同級生に、その時ヒットしていた歌のタイトルを見せられて、「お前このタイトルで作れるか?」と聞かれたのを、「お前このタイトル知ってるか?」と聞かれたと思い、「うん!」と言ったのがきっかけで、結局そのタイトルの曲を自分で作ることになり、その流れでバンドをやることになっていきました。
バンドの仲間3人は、その後もギターを続けていたり、レーサーになったり、美大に行って芸術を続けたり、様々な方面へ進んでいます。大学時代の友人は、ゼミ中心だったこともあって、同じ方面の興味を持っているある種似た者同士でした。それはそれでとても大事な関係ですが、茗溪学園時代の友人は、このバンド仲間のように、目指すところも様々でしたし、クラスで見ても、学年で見ても、本当に個性豊かな面々でした。そして中学高校と6年間続いていることと、たくさんの行事を通してとことん付き合う機会に恵まれたことで、深い友人関係が築けたと思います。
−個人課題研究はどうでしたか?
個人課題研究に取り組んでいるときは、先生から「職業につながる」などの話を聞いても、そうしたことは意識していませんでした。研究テーマとして歴史に関することをやりたいと考えていました。私の場合「好きなこと」「やりたいこと」というのが根っこのところにあって、そこからテーマを探しまして、「日本古代史と民俗学が交わるところ」というのをテーマに選びました。研究を進める中で『日本の古代国家』という本に出会いまして、これを書かれた井上光貞先生に傾倒というか、あこがれました。その井上先生が千葉県佐倉市の歴史民俗博物館の初代館長になられていたことを知りました。そうしたことを通して、どういう人がどういう所でどういう事をしているか、ということを意識するようになりました。そのことがそのまま大学選びにも応用されましたし、大学で歴史学を専攻することにもつながり、現在歴史を教えている自分がいるわけで、確かに個人課題研究は結果として職業につながってきています。
−進路はいつ頃どのように決めたのですか?
茗溪学園は、「何でも一生懸命やれ。」という指導なので、部活や行事がたくさんある中で、受験に本腰を入れて取り組み始めたのは若干遅かったですね。高校2年のおしまいくらいから志望校を絞りました。その時に決める基準となったのが、個人課題研究だったんです。「何を勉強したいんだろう?」とか、「何を仕事にしていこう?」と再度考えました。そして、「民俗学」と「歴史」の両方に興味があったので、両方勉強ができる所を探しました。
−教師になろうと思ったのはいつごろですか?
高校時代はまったく思っていなかったです。
大学生になって教材づくりにとても興味を持ちました。図式化した分かりやすい教材とか、レプリカの史料を実際に触りながら理解していく教材、コンピューター上で立体の地図をつくり自在に動かすことのできる教材など・・・・・・。でもそれはまだ、教員になろうというのとは違う感じでした。そういう中で、教育実習で授業をした時に、自分の知識のなさを痛感して悔しかったのと同時に、もっと面白い授業をやってみたいと感じました。教育実習の総括で、実習生の一人が、「これまで教育をそんなにすごいこととは思っていなかったが、今回、教育とは人間を生み出すことだとわかった。」と言ったことがストンと腑に落ちて、教員への道を本気で考えるようになり、もっと勉強しようと大学院に行きました。そして、筑波大学大学院在学中の後半の1年間、非常勤で茗溪学園に来たときに教師になろうと決心しました。
−就職先に茗溪学園を選ばれた理由は?
大学院在学中に日本史の授業を非常勤で1年間勤めました。その1年間が自分に与えた影響は大きかったです。高2の選択授業だったのですが、まず生徒たちの反応がよかった。そのときの生徒たちは13回生でして、自分とは7歳差でした。生徒というよりも後輩たちという意識の方が強かったかもしれません。そういう意味で親近感を強く持ちました。と同時に高校生特有の何といいますか、斜に構えたというかそういう感じの子もいました。そういうのもかわいく思えました。自分自身もそんなに素直ないい子ではなかったですし。
どういういきさつかは忘れましたが、日本史の何時代が好きか、ということが授業中の話題になりました。そのときに、自分は戦国時代が好きとか、明治時代が好きとか言っていたのですが、ある生徒が「特にこの時代が好きというのはない。全部の時代が面白い。どの時代の人々も面白い」という趣旨のことを言いました。これは自分にとっては大きな意味を持つ言葉でした。
いつだって人間は善いことをしたり、悪いことをしたり、ズルいことをしたり、素晴らしいことをしたりして生きてきた。そのこと自体が面白いとあらためて思うようになりました。そして直接生徒たちと向かい合って教えられることが大きいぞ、たくさんありそうだぞと思ったわけです。それ以前、職業を考える中で教材づくりを仕事にしたいと考えていたのですが、それにも増して授業の中での生徒とのやりとりに面白さを感じました。
しかも、この授業が面白いという感じは、茗溪学園の生徒たちのポテンシャルの高さに支えられているわけです。好奇心の強さ、知的なものごとへの前向きな姿勢、そういう茗溪の雰囲気にも惹かれたということです。
同時にまた、まっすぐな子にも、そうでない子にも、後輩たちに自分にできることを何かしてあげたいと思いました。素直ないい生徒ではなかったからこそ、そういうところで役に立てる部分があるのではないかとも思いました。

−茗溪学園の社会科教育の特徴をお話ください。
社会科だけではないですが、「本物に直面する」、「本物に触れる」、がキーワードです。
これは教室内の授業だけでは難しいですから、社会科では中学3年の広島・京都の研修旅行はとてもよい機会です。たとえば、京都では「調べる」という課題があり、事前に班ごとで話し合ってテーマやそれに合った訪問先を決めます。
そして、自分たちで訪問先に取材をさせていただくお願いをするわけですが、何度も断られる班もあります。「なぜ断られるんだろう?」と考える中に、「自分たちのアプローチの仕方」や「相手の事情を察する」など学ぶことがたくさんあります。
また、「人が気持ちを動かすのは、どういう時なのか」や「自分たちの行動が他者に及ぼす影響」などは、子供たちがやってみて感じられることです。成功や失敗の経験が、学校の勉強という枠を超えて、大学生や社会人になってからも生きてくると思います。そういう意味で失敗も大事ですね。
−柚木先生が社会科を通して子供たちに伝えたいことは何ですか?
ひとつは、いろいろな立場があることを知って欲しいということです。立場によって物事に対する理解や、解釈の仕方や定義が違います。それを踏まえた上で、自分はどの立場にいて、それをどう見ているのかという自覚を持てるようになって欲しいと思います。
もうひとつは、だまされないで欲しいということです。私が教える歴史にしても、多くの資料を基に解釈したものですが、もしかしたらその解釈に間違いがあるかもしれません。新聞の記事にしても、同じ出来事に対して、社によって説が違うこともありますし、テレビの報道もすべてが正しいとは限りません。それから、インターネットのいろいろなホームページに書いてあることも、まるっきり鵜呑みにしてはいかんということです。社会というものを、いろいろな情報を基に分析して、流されないで欲しい。というかだまされないでね、という感じです。
生徒たちが大人になって子供を持ったときに、しっかり子供を育てられる親になって欲しいと思います。
また、歴史というと、たくさん覚えることがあるたいへんな教科という印象が強いのですが、「そうじゃないところが面白いんだよ」ということを、手を変え品を変え話しています。ただ単に歴史を教えるのではなくて、それを糸口にして、そこから、どんどん広がっていくような授業を心がけています。
−先生にとって歴史の魅力とは何ですか?
きっかけが、「火の鳥」シリーズとの出会いでしたので、古代の日本は好きです。
それから高校生の最後のころに、日本の中世史の研究家が書いた、におい、色、肌触りなどを、ひっくるめた歴史を描こうという発想の本に出会い、その時から中世の鎌倉時代や室町時代にも興味を持ちました。
歴史とは人間を考える学問です。政治・経済からにおい・色・感情までにおよびますし、組織の中の人間というのも本当に面白いと思います。こういうことは中学生にはわからないこともあるだろうし、面白いとは思わないかもしれません。自分もそうだったと思いますが、今になって面白くなってきました。今では、人間の歴史の積み重ねであるどの時代も、魅力があると思っています。

−今までで一番楽しかったこと・悲しかったことは何ですか?
子供ができたときうれしかったです。日常生活では、必ず子どもと顔をあわせるようにしています。
悲しかったことは今のところないです。
−10年後・20年後のご自分をどのように想像されますか?
10年後ぐらいには、教材でこれだという確定版を作りたいです。それですべてというわけではないですけど、1つの形として作りたいです。
20年後は、そろそろ引退を考えるころですね。まだ具体的に考えていませんが、子育て支援のような地域活動をしたいですね。私の世代の30代というと、地域とのつながりやバイタリティーが弱いように思います。50代位の方たちって、お母さん同士のつながりや、いろいろなネットワークなど、ものすごくバイタリティーがありますよね。それが世代的に途切れてしまうのはもったいないと思います。人間のつながりや、地域の活動の大切さをこのごろ強く感じています。
−ありがとうございました。
英語科:田中朋子先生 [先生の紹介]

今回は英語科の田中朋子先生です。
2005年7月9日(土)茗溪学園101小教室でインタビューに答えていただきました。
父母会HP編集委員会 重枝(22K&25K)、石原(28K)、内田(28K)、小川(28K)
− 子どもの頃のお話を聞かせてください。
小・中学校時代は東京都日野市で過ごしました。当時の日野は手つかずの自然が残っていて、花を摘んだり、虫をつかまえたりしながら登校したものです。
兄と弟に挟まれていたためか、小学校時代はもっぱら男の子の遊びをしていました。特に「キャプテン翼」の影響もあり、サッカーが好きで、学校から帰るとランドセルを放り出して近くの公園でボールを蹴っていました。
低学年のころは学校ごっこもよくしましたが、そのときはなぜか必ず先生役をやり、「まるつけ」をするのが好きでした。
− 学年通信にエディンバラの話がよく出てきます。
中3の5月に父の転勤で、家族5人でスコットランドのエディンバラに渡りました。そのころは現地に日本人はほとんどおらず、不安だらけの出発でした。
初めて外国人対象の英語学校に行った日、一緒に行った兄が先に帰ってしまい、ひとり泣きながら帰ったこともあります。それでも英語学校は生徒が外国人ばかりなので間違いを気にせずのびのびできたのですが、3ヶ月後、現地の女子校に入学したら今度は級友の話している内容が全くわからず、芽生えかけた自信が一挙にしぼみ、頭が真っ白になりました。
− 現地の女子校では課外活動はあったのですか。
日本で小中学校時代にやっていたバスケットボールのクラブに入りました。練習は週1回だけで、裸足で練習し、トラベリングもなんのその4歩も5歩も平気で歩いてしまうというのどかなクラブでした。1回だけ対外試合があり、メンバーは随時交代するのですが、「Tomoko は替えないで」と言ってくれる子がいて、私はフル出場させてもらいました。勝利を告げる笛がなったとき、チームメートたちが「Tomokoのおかげで勝てた」と言ってとても喜んでくれました。英語での意思疎通にもどかしさを感じていたので、スポーツを通じて喜びを共有できたのは嬉しかったですね。
その女子校で2年間過ごしたあと、Fettes College というパブリックスクールに進学しました。
− Fettes Collegeはハリーポッターのモデルと言われていますね。
ハリーポッターのお話の中に、「(ホグワーツ魔法学校の)樫の木の扉を開けて奥の階段を登ると…」という場面があるのですが、それとまったく同じような扉や階段、それに尖塔、時計台などが確かにFettesにもありました。男子寮が4つ、女子寮が3つあり、スポーツの試合で対抗意識を燃やすところもよく似ています。私は入学と同時に寮に入りましたが、学年によって部屋の人数や就寝時間が違うだけでなく、最上級生しか通れない通路なんていうのもあり、そうと知らずに禁を破ってしまったこともありました。
− Fettesはトニー・ブレア首相の母校ですね。
そうですね。彼は在学中は優等生タイプではなく、随分やんちゃで鳴らしたようです。ちなみに物語としてですが、007のジェームス・ボンドもFettesを卒業したことになっています。
− Fettes在学中の印象深い思い出は?
勉強、スポーツ以外に課外のボランティア活動に力を入れました。週1回、貧しい地域にある施設で子どもたちの遊び相手をするという活動を2年間続けたのですが、自分の学校のすぐ近くなのに雰囲気がまったく違うことに最初は驚きました。そして、自分が恵まれた環境に生まれたのはただの偶然であり、そうでない人々のために力を尽くすのは当然のことではないかと考えるようになりました。

Fettes College(同校パンフレットより転載)
− スコットランドはイギリス(連合王国=United Kingdom)の一地方と思っている人が多いと思いますが、実際はどうなんでしょう。
スコットランドのイングランドに対抗する気持ちは歴史的に根強く、スポーツの世界でも別の国として扱われることが多いです。イギリス人はシャイで親密にならないと自分を出さないと言われますが、スコットランドの人々は比較的フレンドリーです。今でも3〜4年に1回エディンバラに行きますが、ロンドンから列車で北に向かっていく途中、スコットランドに入ったことを示す標識があるんです。そのあたりから景色も変わってきて、しみじみ「帰ってきたなあ」と思います。
− 中高生時代を振り返って、一番嬉しかったことを教えてください。
中2の時、毎年開催される校内弁論大会に学年の代表として出場しました。私は「障害者に対する偏見をなくそう」というテーマで話し、全校(中学高校)で2位になりました。その頃成績もパッとせず、部活のバスケットでも補欠ですべてに自信が持てなかった私にとって、学校で初めて認められたという思いで、たいへん嬉しかったです。
− 悲しかったことはいかがですか。
エディンバラの女子校時代、いつもこちらに聞こえるように「日本人は髪が黒くて気持ち悪い」と言う子がひとりいて、ちょっとつらい思いをしました。でも、他の同級生たちは気さくで優しく、特に一番仲が良かったJennyは、面倒見がよくて学校生活のいろいろな場面で私を助けてくれました。今でも手紙のやり取りが続いていますし、エディンバラに行く時は必ず訪ねています。いつか彼女にも日本に来てほしいとずっと思っています。
− 子どもの頃学校ごっこでは必ず先生役をされていたと聞きました。ずっと教師になろうという気持ちを持ち続けていたのでしょうか。
確かにいつも先生役をやっていましたし、小学校の卒業文集にも「将来の夢は先生」と書いていたので、漠然と教員になりたいという思いはずっと持っていたと思います。
大学4年で就職活動をしていた時には、先ほどお話ししたFettes時代の体験もあり、恵まれない子どもたちを直接支援する、例えばユニセフのような組織で働くことも考えたのですが、自分の思いや目で見たことを一度に多くの人に伝えることができ、間接的に世の中に還元することができる職業ということで、教員を選びました。最終的には、家庭教師、塾講師、教育実習といった経験を重ねる中で、意志を固めました。
− 茗溪との出会いについて教えてください。
親元を離れようと思い、家から適度に離れた学校を探しました。茗溪には帰国生や寮など自分の経験に近いものがあり、同じ慶応大学の先輩が当時在職されていたこともあって、決めました。その先輩は結局私と入れ替わりに茗溪を去ってしまったのですが。
− 茗溪で英語を教えていてどんなことを感じられますか。
私はこれまで毎年、少なくとも1クラスは中1の授業を受け持ってきました。多くの生徒は入学して初めて英語に接するのですが、授業が週7時間ありますから、みるみるうちに吸収していきます。授業が盛り上がってくると、生徒の口からごく自然に英語が飛び出してきます。そういう姿を見ていると、とてもやりがいを感じますね。
また、合間にイギリスの話などを取り入れて、英語はただ学校で学ぶ科目というだけではなく、実際にそれを使って生活している人たちがいる、ということを意識させるようにしています。こういう話を聞くときの集中力は素晴らしいですよ。
− 授業の準備などで気を使っていることはありますか。
教科書だけでなくたくさんの自作プリントを使って授業を行っていますが、その作成、特に中1用に限られた単語で効率の高いプリントを作ることには、エネルギーを使っています。茗溪で初めて英語を学んだ子が、卒業してアメリカの大学で勉学に励んでいると聞くと、非常に嬉しく思います。
− 英語劇を演じている生徒たちは楽しそうですね。
中学1,2年では7,8人の班で英語劇をやりますが、これには全員セリフがあります。それを知らない1年生は、照明をやりたい、「木」をやりたいなどと言います。全員セリフがあることを告げると最初は戸惑う生徒もいますが、班の仲間と練習を進めていくうちに、その楽しさにハマッていくようです。
楽しさの要因はいろいろありますが、セリフのやり取りを通して、英語を自分の言葉として相手に伝える、そしてそれに反応が返ってくる、つまり習ったばかりの英語を自由に操れる、この喜びは大きいと思います。ですからセリフを暗唱する際には、自分のセリフの意味をしっかりと理解させるようにしています。“I am so sad.”と言いながらニコニコしていたらおかしい、というようなことを繰り返し確認していくわけです。またこの英語劇はコンテストなので、いかに他の班に差をつけるか、班毎に独創的な演出を考えていく過程も楽しいと思います。同じ劇でも、毎年様々な工夫がされているので、私たちも存分に楽しませてもらっています。普段おとなしい生徒や英語が苦手な生徒が堂々と演じているのを見ると、本当に感動しますね。
− 先生方の上演を生徒たちは興味深く見ていました。
生徒と同じ演目を学年の教員が上演することもあります。その際、先生方には決してセリフを追加・省略することなく、台本の通り演じて下さい、とお願いしています。生徒たちは、自分が一生懸命覚えた英語のセリフを先生方がちゃんと言えるかどうか、固唾を飲んで見守っています。ですから、笑いが起きてもセリフになるとシーンとします。そして先生が間違えたり飛ばしたりすると、必ず反応があります。忙しい中でなかなか大変なことなのですが、先生方はとても意欲的で、おもしろい演出を考えてくれるんですよ。
− 中学でも習熟度別授業が導入されましたが、中2からにしたのはなぜですか。
すでに小学校で英語活動を盛んにやっているところもありますので、入学の時点である程度力の差がついているケースは確かにあります。でもおもしろいのは、この差がすぐにひっくり返ってしまうことがよくある、という点です。中1の最初のうちは、英語に触れた経験のある生徒が多く発言して授業を盛り上げますが、段々と初めての子たちがそれに引っ張られて積極的になり、力をつけていきます。すると、経験があっても油断しているとすぐに追いつかれてしまうわけです。結局は本人の意欲そして努力次第なので、経験があってもまったく初めてでも、興味を持って一生懸命取り組む子は、グングン伸びていきます。中1の1年間はこの状態が続くので、まずは英語に初めて触れることを前提にABCから丁寧に教え、習熟度別クラス編成の導入は中2からにしました。もちろん海外生は中1から別クラスですが。

今のところ、学年に所属し、生徒のことをよく知っている先生が英語の習熟がまだ十分でないクラスを受け持つようにしています。そして、みんなでがんばろうというムードを持たせるように、雰囲気つくりにも努めています。このクラス編成はあくまでも「習熟度別」であり「能力別」ではありませんので、クラスが変わったからと言って、必要以上に一喜一憂しないでよいと思います。むしろ自分の学習状況に適したクラスで学び、力をつけることが大切です。英語は努力すれば必ず成果が表れる科目ですので、ぜひ前向きにがんばって欲しいですね。
一方で、習熟度別にしてからは英語が得意な生徒にもさらに刺激を与えることができるので、このメリットは大きいと思います。実際、習熟度の高いクラスは課題が他より多く出されるのですが、皆、手を抜かずによくやっています。高校からは海外生も混ざった習熟度別クラスになるので、さらに高いレベルを目指して欲しいと思います。
− 高2でイギリスに行きますね。
高2の研修旅行(イギリス)は、英語を学習する上での目標になっています。現地の生徒たちと事前にメールでやりとりし、学校交流で直接話しをします。また、ホームステイも体験します。行ってみて、準備した割に英語が通じなかった場合は「もっと勉強しなくては」と思いますし、通じた場合には嬉しくなって勉強にはずみがつきます。
− 昔から日本の英語教育は会話がネックと言われてきましたが、充実した英語教育を受けている茗溪生の会話力は先生からみていかがですか。
中学ではネイティブの先生と1対1の会話のテストもやりますし、英語劇や中3のクロスカルチュラルトーク、高1のレシテーションコンテストなど、全体的に英語を口にする機会がとても多くありますので、かなり力をつけていると思います。もともと活発な生徒が多いですから、英語を話す時にもそういう面が活かされるといいと思いますね。
− リーディング、リスニングについてもアドバイスはありますか。
英語の本を読む時は、少しやさしいレベルで、楽しんで読めるものを選ぶといいと思いますよ。あまり難しいと、「読む」というより辞書と首っ引きで「調べもの」になってしまいます。そして量をたくさんこなすことです。
リスニングもそうです。とにかくたくさん耳にすることで、音楽と同じように聞いているうちに英語のリズムが体にしみこんでいきます。DVDで、英語の音声を英語の字幕と一致させながら映画を見るのもいいと思います。リスニングは若い時に大きく伸びるので、特に中学時代に鍛えてほしいですね。
− 英語の教育を通じて生徒たちに伝えたいことは何でしょう。
英語は目的というより手段、道具なんですよね。例えば科学者になって世界で飛躍しようという時、英語ができれば自分の研究を世界中の人たちに直接伝えることができます。ノーベル賞をとった田中耕一さんなど、発音やイントネーションにぎこちなさはあっても、インタビューには英語で応じ、自分の言葉で伝えていました。サッカーの中田選手も、イングランドのチームに移籍した際の記者会見では、英語で話していました。自分の得意なことにプラスして英語ができれば、将来活躍する舞台が確実に広くなります。そのために、私たちも英語を嫌いにさせないよう努めています。

− 茗溪学園の生徒についてどう思われますか。
学業と部活動を立派に両立させている生徒が非常に多いです。ラグビー部の生徒が高3の1月まで花園の全国大会に出て、直後に志望の大学に受かってしまうのを見ると本当にすごいと思います。行事も多くて忙しい学校ですが、すべてに全力投球しているのに、それほど大変でなさそうに、さりげなく乗り越えていく生徒たちには本当に感心しています。
また行事が多いことは、個々の生徒が活躍できる場面が多いということでもあります。活躍できれば周囲から認められ、認められれば自信が持てるようになります。行事の際には、授業中とは全く違う姿が見えることもあるので、教員にとっても勉強になることは多いですね。
− 茗溪学園の父母についてどう思われますか。
茗溪のお父さんお母さんは仲がいいですね。卒業しても父母会が続くといいます。父母のみなさんも、一緒に学校生活を楽しんでいる感じがします。また、お父さんが積極的に参加されているのが茗溪の特徴ですね。特にキャンプは、お父さんのボランティアなしでは考えられない行事です。子どもたちを見る目は父親と母親とで違うので、お父さん方が熱心に関わってくださるのは本当に有り難いことです。昨年担任したクラスでは、クラス役員がお2人ともお父さんでした。茗溪ではそう珍しいことではありません。これからも、活発な父母会活動を続けて頂けるといいですね。
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和やかな中に、先生の茗溪生に対する深い愛情と、英語教育にかける情熱が ひしひしと伝わってきたひとときでした。
長時間ありがとうございました。

今回は、理科の鈴木朋子先生です。
2005年7月9日(土)茗溪学園応接室にて、予定時間を超えてインタビューにお答えいただきました。
授業に対する熱心な取り組みやお考えを聞かせていただいております。
どうぞお楽しみください。
父母会HP編集委員会 村田(22K&27K)、塚田(28K)、齊藤(28K)、吉田(29K)
−ご出身は?
岐阜県高山市です。両親が教師で転勤があったので、生まれたのは白川郷です。
高校卒業まで岐阜県で、大学は北海道大学農学部です。クラーク先生にも憧れましたし、一番広い農場を持っている大学にしようと思いました。最初は理学部志望でしたが、有吉佐和子の「複合汚染」を読んで、技術者のほうが役に立てるかもしれないと農学部にしました。でも、大学に入ったら研究が面白くて、やはり研究者になりたいと思いました。
−教師になったきっかけは?ご両親の影響はあったのですか?
私は教師になったのが遅くて、茗溪学園の専任教師になって今年で6年目です。学生時代は、教員になるという選択肢はありませんでした。ただ、「どこの大学・学部でもいいけれど、教員の免許だけは取りなさい」というのが、両親からの大学進学の条件でした。学生時代は、大事な農学部の授業と免許の為の教育学部の授業が重なって大変でした。でも、今は、親が言ってくれたおかげでこの仕事ができているのかなと感謝しています。
−先生の経歴
私の経歴はちょっと複雑で・・(履歴書をご用意くださってそれを見ながら)専任になる前に平成6年4月から非常勤で(茗溪学園で教師を)始めました。その前は・・・
大学院進学と就職とで迷いましたが、試しに受けた岐阜県の公務員試験に合格しました。職種は地方公務員上級・研究職、技士としての採用でした。最終的に研究職に就きたかったので進学しませんでしたが、後で、折に触れ大学院で勉強したかったなという思いはありました。
岐阜県が上級職として女性を採用したのは初めてだったらしく、最初の辞令は兼務が一杯付いていました。どこかで使えるかもしれない、言い方を変えればどこも女の子なんかいらないということだったようです。結局、「農業試験場兼病害虫防除所 勤務を命ずる」ということで、環境部の土壌肥料課というところに配属になりました。大学では農薬の研究室にいたので一から勉強し直しでした。周りが新人を育ててくれる環境だったのですごく勉強になり、農業試験場時代が自分にとっての大学院かなぁと思います。
でも、たった1年で転勤になってしまってすごく残念でした。転勤先は実家の近くの「飛騨農業改良普及所」というところで、今度は行政職でした。当時は農業改良普及員に女の人はいませんでしたが、結局ここで5年間働きました。ほうれん草とトマトの生産をいかに上げるかという仕事でしたが、最初の頃は「女の子の普及員なんて・・・」という雰囲気がありました。現場での仕事で、今は当たり前になっている土壌診断を、協力的な農家の人達と実験しました。最初は失意の中でのスタートでしたが、今は幸せな普及員時代だったかなと思います。

夫は大学の同級生ですが、大学院卒業後、つくばに就職が決まったということで、私も仕事が一段落した時だったので公務員を退職しこちらへ来ました。1ヶ月だけ専業主婦をしましたが、当時はなぜか仕事をしていないことに後ろめたさを感じていて、理化学研究所に勤めました。細胞銀行というところでしたが、初めての医学・薬学分野の仕事で、まったく分からない単語ばかりでした。果たしてやっていけるのかと思いましたが、ここでも、「2年間は教育期間だと思うから」と教えていただきました。結局、教育期間のうちに出産し、休職中に茗溪学園に来ることになってしまったので、理研には本当に申し訳ないことをしたと思います。気持ちよく送り出していただき、今でも研究所見学や生徒の個人課題研究などでお世話になっており、ありがたいことだと思います。
−茗溪学園との出会いは?
茗溪学園との出会いは、本当に偶然です。いつも土浦野田線を通っていたのに、たまたま1本違う道に入って、「あ、こんなところに学校があるんだ」と知りました。それまで、理科が好きで生物が好きで、ずっと研究者としての仕事を考えていましたが、この面白さを子供たちに伝えるのもいいかなぁと思ったのです。募集も何もしていませんでしたが、いきなり電話しまして、「実験助手でも何でもいいからやらせてください」。今思うと、よくそんな勇気があったなぁと思います(笑)。その時は、「中学2年生のサツマイモの栽培指導はできますか?」と言われました。果たして普及員時代の経験が生かせるだろうかと考えていたところ、後日、「生物の非常勤ではどうですか」と連絡をいただいて、こちらへ来ることになりました。自分でも、いろいろな偶然が重なって、よく今ここで教師をしているなぁと思います。
−理科(生物)を学ばれたきっかけは?
元々理科は好きでしたが、中学時代は、ひたすら研究するキュリー夫人があこがれの人でした。高校合格後、入学前に買って読んだのがなぜか生物の参考書で、面白いなぁと思ったのです。そして、高1で初めて生物を教えてくださった先生がすごくステキで(笑)。同級生のお父さんでしたが、毎回必ず予習して、うっとりと先生を見て授業を聞いていました。生物の授業は時間が過ぎるのがいつも早くて、気が付くともう終わってしまうのかと思いました。その当時のノートは今もとってあります。とても興味をひく授業をされていたのでしょうね。そういう授業をしたいと思っています。
その後、普及所に転勤になって落ち込んでいた頃に山登りを始めたら、その先生が地元の山岳会のトップにいらしてお世話になりました。今、私がこうして生物を教えているのも不思議だなぁと思います。
−茗溪学園の理科教育
本物を見せるということを、すごく意識していること。最初に非常勤で茗溪学園に来たときに、「授業では教科書に書いてある以上のものを子供達に話してください。あなたが今までに見たことなども織り込んでください」と言われたことに驚きましたし、生徒の知的好奇心が旺盛で、こちらがとまどう位に質問が出たことにも驚きました。それから、こんなに実験をするんだ!ということにも驚きましたね。当時、中学1年生は週2時間の生物の授業のうち、1時間は実験でした。とにかく、本物を見せる、本物に触れさせるということに重点をおいていました。生物に限らず実験が多いのは特徴ではないでしょうか。
科学的にものを考える力のある子にしたい。単に知識を教えるのではなくて、どういういきさつでそうなるのか、そのためにはこんな面白い実験があって、こんな試行錯誤があるということを知って欲しいですね。

【先生手作りのおもちゃ(光合成と染色体) 工夫されていて驚きました】
−理科離れと言われていますが?
「覚えればいいんだよね」というスタンスの子が多くなったかなという気はします。それはちょっと嫌なので、デスクワークだけではなくて、実験を取り入れていきたいですね。それも、今までやったことのない新しい実験をひとつでも多くやりたいです。茗溪学園の実験は、ちょっとやって終わりというのではなくて、ここから何が学べるだろうと徹底的にやります。子供達もその辺りを感じているので、マニュアルにない実験をどんどんやります。これは、茗溪学園が開校以来大事にしている部分ではないでしょうか。子供が何かをやりたいと言ってきた時は、すごく貴重だと思います。伸びようとしている気持ちをどれだけサポートできるか。子供達が積極的に関わってくれれば、それに応える用意はある、そういう学校だと思います。
他には、手作りのおもちゃも新しいものを作りたいですね。今はパソコンでもできますけれど、子供達が喜んでくれるので作りがいがあります。ガラクタみたいなものも多いのですが、授業で「おお、すごい!」と言われると、それだけでニコニコになっちゃって(笑)。うまくいかなくて悪戦苦闘しているところが子供達に受けるのかもしれません。
−今までの人生で一番嬉しかった事
嬉しかったことはたくさんありました。入試に合格した時も、結婚した時も、無事に出産した時も、仕事がうまくいったときも嬉しかった。あ、茗溪学園の教師になった時も嬉しかったです(笑)。どれが一番というのは難しいですが、自分が一所懸命に頑張れる場所を与えてもらった時は嬉しいと思いました。
今、5年生(高2・26回生)を担任していますが、1年生からずっと持ち上がりなので、あの子達が無事に卒業したら、すごく嬉しいだろうなと思います。そういう嬉しいと思う気持ちは生きる力になっていると思います。
−今までの人生で一番悲しかった事
楽観的な方なので、すぐに忘れてしまいます。ただ、忘れられない、これは忘れちゃいけないと思うことはあります。今の26回生が3年生の時に、担任していた生徒が病気で亡くなりました。思ってもみなかったことだったので、すごく悲しかったです。
−10年後、20年後、30年後の自分
40(歳)を過ぎて体力が無くなった事を痛感しています。妥協しないで教師を続けていられるでしょうか。惰性でしかできないようなら、それはもう交代の時期だと思います。あと10年は(教師を)やれるかな、やりたいなと思っています。
20年、30年後はもっとわからないです。夫に言わせると、ゆったりと過ごせる性格ではないようなので、何かやれそうなことを探してやっているかもしれません。

−日常生活で一番大事にしている事
ゆとりですね。ゆとりを持って生活しなくちゃいけないなぁと思っています。出来ていませんが。学年主任が、「ゆとりの無い時に子供を叱ってもうまくいかないよ」とおっしゃいますが本当だと思います。叱るときだけではないのですが、ゆとりがある時だとこちらの想いもきちんと伝わります。手を抜きたくはないですし、精一杯やりたいと思っていますが、忙しさに押し流されているような気がして反省ばかりです。
理科の教員なのでいつも最先端でいたいです。どんどん進む科学の知識を自分でも理解して子供達にも伝えたいなぁと思います。自分が楽しいと思えないと、子供達にもその楽しさを教えられないと思いますので。勉強したいと、ずっとずっと思っています。
−茗溪の父母は?
中学生のキャンプのボランティアや他の行事でもいろいろな面ですごくサポートしていただいているなぁと感じます。実は、子供達が茗溪学園に在学していますが、仕事をしている父母として自分はどれくらいできているだろうと思うと、全然できていません。自分の子供だけではなくて、茗溪学園全体のために一所懸命考えていただいている。父母の協力がないと成り立たないとありがたく思っています。応援は本当に心強いです。
−本日は長時間にわたり、ありがとうございました。
美術科:藤嶋明範先生 [先生の紹介]
2004年 12月20日(日)美術作業室にて
今回は、美術科:藤嶋明範先生にインタビューいたしました。
先生はハウスマスターで学寮部長をしていらっしゃいます。
ホームページ委員会: 長命(29K) 、村田(22K&27K)、重枝(22K&25K)

− 先生のご出身はどちらですか?
出身は秋田県の県北、鷹巣町です。林業の盛んなところでした。美術と出会ったのは、小学校5・6年生の頃です。絵を描くのは好きだったのですが、当時のクラス担任の先生がとても美術に熱心でした。研究会でやってこられたことをすぐ取り入れる方で、毎日のように絵を描いていました。たとえば短時間でデッサンするクロッキーというやり方をその時始めて知りました。朝のホームルームの時間に当番のモデルが前に立って、それを見ながらみんなで毎朝クロッキーを描いていました。そのクラスはみんな絵を描くのが好きでした。いろんな絵を描きましたが、木版画にはよく取り組みました。現在は木版画の教材が小学校の教科書から消えてきていますが、昔は必ずといっていいほどあったと思います。一番思い出に残っているのは共同制作の版画でした。それは“製材所”をテーマにした共同木版画で、7人ほどの班員で大きなベニヤ板に彫刻刀で彫ったものでした。中学では野球部に入っていました。熱心な野球少年でした。レギュラーとして県大会にも出場しました。県大会の後引退してすぐに,美術の先生を訪ねて油絵を教えてもらいました。キャンバスを作ることから教えてもらいました。テント布に胡粉と膠で下地をして、木枠も自分で作って、文字通りの手作りキャンバスを作りました。近くを流れている米代川の冬景色を描いたのが最初の油絵です。高校は、列車で30分位の大館市にある大館鳳鳴高校です。美術部に入りました。絵はたくさん描き、自分たちで企画した展覧会もやりました。この時に絵描きになりたいと思いました。大学は岩手大学です。その後東京芸術大学大学院に進みました
− 教師になったのは いつですか? 茗溪にいらしたのは いつですか?
教師になったのは茗溪に来たときです。茗溪に来て21年になります。
− 教師になったきっかけは?
高校の美術部顧問の伊勢秀夫先生に出会い、大きな影響を受けたことが教師になるベースになっています。高校生である我々を、一個の人間として見てくれましたし、尊重してくれました。絵はもちろんのこと、文学、社会的な事柄等に精通している方で、絵を描く気持ちを教えてもらいました。と同時にその生き方にも感銘を受けました。今でも親しくしていただいている大変尊敬している先生です。
− 茗溪との出会いは?
岩手大学在学中に茗溪との出会いのルーツがあります。同級生に“古山*“という大人物がいました。(笑)ブールデル(ロダンの助手から偉大な大彫刻家になった:代表作は「弓を引くヘラクレス」「英雄」「アポロン」等)の写真集を彼が見せてくれて「彫刻を一緒にやろう」と誘われました。音楽にも精通していて、「パブロ・カザルスによる『バッハの無伴奏チェロソナタ』をこれこそ音楽だ」と聞かされてショックでした。常に一歩前を歩くような人物でした。本人は私を誘っておきながら、彫刻ではなく絵画に進みましたが。(笑)
大学院修了時点では、まったく教員になることは考えていませんでした。
大学院を出て美術彫刻のブロンズ工房で仕事をして2年くらい過ぎた頃、既に茗溪学園で美術教師をされていた古山先生が「茗溪で一緒にやろう」と熱心に誘ってくれました。相変わらず強引な勧めがあって悩みましたが、先生をやってみたいという気持ちがないわけではなかったので、茗溪学園に来ました。
(*古山浩一;茗溪学園元美術科教師。平成13年3月創作活動に専念するため退職。)
− 今までの人生で一番嬉しかったことは?
小学校の頃から野球ばかりしていて鷹巣中学校では野球部に入りました。前から2番目くらいの小さい生徒で、なかなかレギュラーが取れませんでした。万年補欠です。(笑)3年生になって、監督からのスタメン発表で「2番サード、藤嶋!」と呼ばれた時は、本当に嬉しかったです。その時のデビュー戦で結構活躍して、地元の新聞にも最初の試合で活躍したことが載りました。子供の頃の思い出で一番嬉しかったことです。
− 今までの人生で一番悲しかったことは?
悲しかったというよりは恥ずかしかったことについて。強烈に覚えている事です。小学校一年生の時でした。夏休みの宿題に工作を作っていくということがありました。宿題で物を作るのは嫌いだったのかな? 夏休みが終わる日に、やっていない宿題を泣きながらやる羽目になりました。怒られながら、母親と一緒にやりました。工作もほとんど母に手伝ってもらって作りました。真っ白い、きれいな形のよい機関車ができたのですか、形がよすぎて、親に手伝ってもらったことがすぐバレてしまいました。教室に飾ってある期間中、恥ずかしくて気持ちが落ち着かなかったことを覚えています。とても恥ずかしく悲しい思いをした出来事でした。
− 20年後の自分、30年後の自分
定年後に一念発起して五百羅漢を作っているかもしれないです。一日に1個作っても2年、石で作ったら時間がかかりますから一生ですね(笑)。或いは、のんびり温泉のでる町で手打ちそば屋をやっているかもしれないです(笑)。私の蕎麦、おいしいですよ(笑)。何はともあれ彫刻は作り続けていると思います。
30年後?生きてないでしょう。(笑)
− 茗溪の美術教育の特徴
その第一は「展示教育」です。「学校を美術館に」というスローガンに基づいて、常に生徒のすべての作品を展示しています。2週間から1ヶ月の間隔で展示替えをしています。(石彫や個人課題研究は別です)高校1・2年生のクラスに各一人展示係りがいて学校のシステムとして展示を位置づけています。まだやっていない下級生には、「今度こんなふうな事をやるのか」ということで鑑賞されますから、導入が半分はできています。また絵を通してその人が見えてくることもあります。茗溪学園では展示されている作品にいたずらはされないので安心して展示しています。
将来、芸術棟ができるといいですね。
二つ目は、よく観察して再現する力をつけさせているということです。物をよく見て描く。これは比べてみると分かるのですが、例えば靴を見ないで描かせる。次に下駄箱から靴を持ってこさせて実際に見ながら描かせる。この二つのデッサンを見比べてみると、見ながら描いた方がいかに素晴らしいデッサンかが分かる。実際に見て描くことが基本だということです。この「よく見る」ということを、美術の基本に置いています。この基本をベースにしていると、本当の個性というものがにじみ出てくる、ということだと思います。また、近頃の子は生き物と直接触れることが少ないような気がします。中3の授業で実際に生きているニワトリをモチーフにしていますが、出来た作品が本当に生き生きとしていて良かった。いのちあるものの力ですね。自然は近くに豊かにあっても、実はきちんと出かけて見ようとしないと見えないものです。茗溪学園は赤塚公園など、木立がいっぱいで良い環境に恵まれている方だとおもいます。私の好みとしては、近くに川原がないのが残念です。川原があると石を使ったり、土や砂をいじったりいろいろなことが出来ます。水そのものの魅力もありますね。水の中には生き物がいっぱいいるし・・・。
三つ目は「本物に触れる」こと。モチーフについても本物ということが大切ですか、美術作品そのものも良い作品、本物を実際に見る、ふれるということが大切です。
そして年に1回の「茗溪美術展」です。生徒の作品と共に、父母の方からも作品を出展していただいています。また父母の中にも美術を生業とされている方がたくさんいらっしゃいますが、その作家の方達と教員とは違った鋭い観点で、生徒達の作品について語ることができます。批判にさらされると同時にいろいろな方の様々な感想を通して、美術教育についての反省の機会にもなります。
− 美術を通して生徒に伝えたいこと
基本的に美術は心を込めて作品制作をすること。そういう姿勢を教えることだと思います。作品鑑賞でも同じです。心がこもっている作品は必ず良いものが生まれる。表現しようとする気持ちが大切です。ですから、私たち教員は生徒たちをよく誉めます。生徒のいいところを発見する。困っているところがどこなのかを発見する。励ましが基本です。美術的なセンスや作品を作る能力、作品に感動することは、誰もが持っているし、できることです。心を込めて作ることです。気持ちが入るのと入らないのとでは、全然違いますから、一生懸命やれば必ずいいところが出てきます。例えば石なら石の中から自分の形を彫り出すという作業では、技術的に難しいところは手をとって教えたり、実際に彫って見せたりしますが、モチーフは自分自身ですから、自分自身に明確な形に対するイメージがないとなかなか進まない。石のかたまりの中から、自分のイメージした形が見え始めるとどんどん仕事が進むようになります。また、結果的にいい作品に仕上がると、生徒も納得して僕もよく表現できたなと、共感できます。そういう「心の共有ができる」ということが「美術」の楽しさであり、面白さだと思います。また、作品を通していろいろな事を語ることができます。
− 個人的な活動 ライフワーク等
彫刻です。国画会に所属しています。毎年、春の「国展*」が東京上野の都美術館でありますが、この展覧会に所属して作品発表をしています。個展も時々やっています。2003年秋にひたち野うしく駅近くのギャラリーで個展をやりました。キウイ棚のところにある作品は国画会の会員になったときの作品です。ここ数年は具象的な作品から抽象的な作品に変わりつつあります。はっきり分けているわけではありませんが、興味がいろいろ湧いてきています。今取り組んでいるのは、笠間市で産出される稲田石という白い花崗岩の大きなかたまりで、四角い箱を作っています。瞑想のための部屋です。古い作品は第1AVE前にいくつかならべてあります。この中の石膏に着色した男と女の像は、私が生まれた町の(秋田県鷹巣町)陸上競技場の入り口にブロンズ像になって置いてあります。

最近では、生まれて初めて観音様を彫らせてもらった事が私としては初めてのことで、貴重な経験でした。岩手県の北、一戸町(いちのへまち)の鳥越観音*という観音堂のご本尊です。焼失してしまい、新しく彫る事になり、依頼を受けました。

美術品としてではなく、「参拝の対象」として残るものを作らせていただいたわけです。彫刻を作っていて、このようなことは初めてです。自分が作った作品が作品としてではなく、今度は自分も手を合わせて拝むものとなるわけです。彫刻家として、まだまだ未熟な私がやることではなかったのではないか、と思いながらの仕事でした。これまでとは全く違った気分で臨んだ仕事でした。
(*国展http://www.kokuten.com/)
(*岩手県指定有形民族文化財。伝説によれば、平安時代のはじめまでさかのぼる古寺
http://www.sukima.com/12_touhoku00_01/03torigoe.htm
http://www.shokokai.com/ichinohe/syuukan/torigoe.html)
− 寮について
ハウスマスターを長くしていますが、いつも感じるのは寮生のパワーです。多感な6年間を、親元から離れて暮らすわけですから、寮生生活するだけでも大変な苦労がある。しかしそれだけではなく、目的を持って前向きに生きている。寮生同士の絆も抜きん出て強いです。6年寮生のお別れ会でもあるクリスマス会で、先生や後輩寮生に送られ退場する時は、いろいろな思いが込み上げて、たいへん感動的です。
寮生にとって何が一番かというと、仲間が一番です。先輩・後輩です。
12回生のある卒業生は “茗溪の寮はただの建物であって、そのつくりなどはどうでもよい。問題はその中身である自分たちだ。むしろ自分の中に寮がある、という気分だ。いろんな仲間との毎日の生活が今の自分を作ってくれたと思う。思い出は一日話しても話しきれないほどいっぱいある。寮の仲間とは今でも深い付き合いをしている” と言っていました。寮は、寮生自身の中にある。なかなか味のある言葉ですね。
− 茗溪の父母や父母会活動に対しての率直な意見、感想
父母会の皆さんにはとても助けられています。とくに今は学寮部長をやっているので、寮父母会のバックアップの大きさというものを実感しています。率直な意見交換を通じて方針を理解して頂いていることへの安心感、真剣なお付き合いを通して、自信を持って教育活動をしていくことができるというのは、何より大きいです。茗溪のこまごまとしたところを支えてくれるすごいパワーを感じます。
また、茗溪展へ出品して頂ける、また観に来て頂ける、それらもご父母の方々に応援されていると思うと嬉しくなります。「三位一体」という言葉は創立当初より使われていますが、様々な場面でそれが生きていると思います。
これからも父母会の活動は、いろいろなことをやっていただき、たくさんのネットワークが出来ることを期待しています。
長時間にわたり、ありがとうございました。
藤嶋先生の作品の一部です。
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2004年10月3日
今回の先生インタビューは数学の川島浩先生です。平成16年10月3日雨の日曜日、事務室でインタビューにお答えいただきました。先生にはお茶まで入れていただき、お話は和やかに始まりました。
父母会ホームページ委員会:小松(27K&29K)、森田(29K)、山田(29K)、吉田(29K)
− 先生のご出身はどちらでしょうか?
出身は東京都です。中学、高校と中野区で過ごしました。大学は京都でした。学生時代が長かったですね。普通4年なのですが、わたしは大学生活が好きで5年いました。もっとも8年まではいられたのですが…。(汗)
− 教師になられたのはいつでしょうか?
昭和61年です。日本の学校の教師は茗溪が初めてでした。
− 教師になったきっかけは?
学生の時の教育実習で、教師も面白いなと思いました。京都の商業高校で実習したのですが、そこの生徒から「先生に向いてるどすえ」と言われて、教師もいいかなと思ったわけです。それと、人前に出られる、というのも魅力でした。前に出るといつも目の前にお客さんがいっぱい……。学園祭とかでギターを弾くにしても、お客さんは10人とか20人くらいだったんです。でも教師だと黙っていてもクラスに40人はいますからね。落語研究会の鈴野先生とも話したことがあるんですよ。黙っていてこれだけお客さんが入るっていうのは嬉しいねって。別に出たがりではないのですが、教育実習で感じた、面白さが伝わった瞬間の手ごたえのように、自分のあるパーフォーマンスに対して何かが返ってくる雰囲気というのは好きですね。
− 茗溪学園との出会いは?
青年海外協力隊で2年間アフリカのマラウイに行っていました。そこでは数学と理科の教師をしたのですが、昭和61年に日本に戻った時、初代の岡本校長から一度見に来なさいといわれ、いくつかの紆余曲折の後に採用してもらえました。当時茗溪では協力隊出身の先輩方が音楽や英語の教鞭をとっていらしたので、それも縁だったのかなと思っています。

− 今までの人生で一番嬉しかった事は?
初めて卒業生を出したときは嬉しかったですね。11回生でしたが、最初に担任をした学年だったので卒業させた時はほっとしました。卒業させられてよかったなあと。今まで11回生、14回生、21回生の3回卒業生を出しましたが、卒業生はみんな印象に残っています。
− 今までの人生で一番悲しかった事は?
悲しかったといえば、中学1年の時のことでしょうか。バスケット部に入ったのですが、腰を痛めてできなくなってしまったんです。サッカー部に入ろうとしていた石川くんを無理に誘ってバスケット部に入ったのですが、私がすぐやめてしまったので『そんなのってないんじゃん?!』と彼から言われた時は悲しかったですね。今でも心の傷になっています。だから茗溪で部活をずっと続けている諸君を見ると、ほんとに偉いなあって思います。
− 10年後の自分はどうなっていると思われますか?
10年後も今と同じだと思いますよ。今私は47ですが、57の自分も今と同じであればいいと思っています。
− 20年後、 30年後のご自分はどうでしょう?
あまり先のことは考えないのですがケネディ大統領暗殺の公文書が公表されるまでは生きていたいなあと思っています。公表されるのは私が80歳近くなる頃[※]と思いますが、それを是非見届けたいですね。
もう一度海外に出るのも悪くないですね。シニア海外協力隊とかで何かお役に立つことができればいいのですけど、シニア隊員となると専門の技術などが必要なので簡単ではないですね。
※ケネディ大統領暗殺に関する公文書は2039年まで非公開とされている。
− 日常の生活で一番大切にしていることはありますか?
難しい質問ですねえ。一番かどうかはわからないですが、時間的なゆとりを作るということは大事にしているし大切なことだと思っています。時間的なゆとりをもつということは一つ間違うと怠けているみたいに見えるので、かなり開き直らないと獲得しにくいのですが、勤め始めた頃に長老の先生から訓話(?)されたので今でもときどき思い出すようにしています。「あのな川島くん。教師ってものはな、いつ生徒が話しにきてもいいようにゆったりしてなあかんぞ」って。

− 茗溪学園の数学教育の特徴は?
数学の教材を通じて深く考えさせる、つまり思考力の養成と、みんなが理解できるようにというケア、が本校の数学教育の特徴だと思います。数学は時間割の中でも占める割合が高いですから、数学がわからないと授業全体、学校生活全体に暗い影を落とすことにもなりかねません。ですから出来る、出来ないということ以上に、みんなが解るような、面白く感じるような授業をどの学年も心がけています。
生徒たちが教壇に立ち説明をするといったこともやりますね。これは人に説明することによって本人の理解度が格段に増すからです。生徒がする解説は私の解説よりみんな集中して聞いたりしますからやんなっちゃうんですが。6年になると入試問題演習は解いてきた問題をみんなに説明するというスタイルになります。答えを出すだけでなく「どうして?」と聞かれた時に説明できるようになると、足腰のしっかりした理解になってくるみたいですね。
− 川島先生が数学の教育を通して生徒に伝えたいことは?
数学の面白さをみんなに伝えたいと思っています。高校生には「数学を通して人生を教えている」と言うときもあります。数学が得意な生徒も不得意な生徒もいるわけですが、数学はどれくらい勉強すればできるようになるかということがはっきりしない教科でもあります。ちょっと勉強しただけでできる場合もあるし、いくら勉強してもできない場合もあります。でもそうこうしているうちに、できない問題を解いたり考えたりすること自体が「面白い」と思えるようになることってありますよね。こういう感性はその人の生き方に大きく影響するような気がしてなりません。
一方で、その面白さが生徒に伝わったなと実感がどれだけあったかというと、そうはないですね。実際の授業では週に一度あればいい方です。本当はこの手ごたえが週に2回は欲しいんですけどね。
− 数学がおもしろくなるには?
将棋とか碁をするといいと思いますよ。数学が面白いと感じる子はそのような遊びが面白いと感じる子に多いです。オセロとか、人生ゲームなどのボードゲームなどもいいですね。今はそういう遊びをする機会が少ないのではないでしょうか。数学は勉強ですけど遊びの要素もたくさんあります。もっともこれらのゲームは校内では禁止されているので、やるときはご家庭でお願いします。(笑)

− 茗溪学園の父母や父母会活動に対しての素直な意見、感想をお聞かせください。
こういうHPもそうですけど、父母の皆さんのご協力には大変感謝しています。それから、父母会をやられている方々は大変だろうなとも思います。公立の学校ですとみんながほぼ同じ地域にいるので、そこで父母の方の交流もあるでしょうけれど、茗溪の場合は通学範囲が広いため、父母会が元気でないとなかなか交流の場が得にくいですよね。交流の場があれば自分の子の困った点も他の人と共有できるというか、うちだけではなかったのだと思えることが精神衛生上とても良いと思います。私も父母の一人なのでよくわかるのですが。
− 親として茗溪に子供を入れるポイントになるところは?
いろいろありますが、例えば茗溪の進路指導では、10年後、20年後のその子のイメージを持ってトータルなところを見ていると思います。これは本当に大きいと思います。要するにどこの大学に入るという進路指導ではなく、その生徒の将来はこういった分野で伸びてゆくというのを見てくれています。高校2年で個人課題研究というプログラムに取り組みますが、この時期は受験勉強が始まる頃です。にもかかわらず個人課題研究のために時間割を週2時間割くというのは、学校としてはかなり大胆な選択です。でもこの個人課題研究によって将来が決まってきたという生徒も実際に多数いるわけです。これは一つの例ですが中学一年のときから教科指導と教科外活動が二人三脚となって生徒一人一人の人間形成に深く関わってくれるというのは親として頼りがいありますね。
こうして長い時間川島先生におつきあいいただき、いろいろなことを話していただきました。川島先生の飄々としたお話は時間も忘れてしまうほど楽しく、先生のお人柄を感じさせていただきました。川島先生に巡り合って、数学が好きになる生徒もきっとたくさんいると思いました。ありがとうございました。

マラウイについて詳しく知りたい方は
・マラウイ共和国政府公式サイト(http://www.malawi.gov.mw/)(英語)
・マラウイ共和国大使館(http://www.malawiembassy.org/)(日本語、英語)
・日本外務省マラウイの情報(http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/malawi/)
・日本マラウイ協会(http://www.joca.or.jp/malaw/malawi-j.htm)
・独立行政法人国際協力機構(JICA)(http://www.jica.go.jp/)
保健体育科:内窪誠先生 [先生の紹介]

2004年4月18日
今回は、この春23回生を送り出し、4月からは29回生の学年主任となられた内窪先生です。体操部の顧問でもいらっしゃいます。当日は新入寮生の筑波山登山に付き添われたあとでしたが、お疲れのご様子もなく、たくさんの質問にお答えいただきました。とても楽しい時間を過ごさせていただきました。
父母会HP編集委員:堀井(23K),間中(22K&23K),三勢(21K&24K),村田(22K&27K)
- 御出身はどちらですか?
出身は宮崎県です。小学校、中学校時代は都城市で過ごしました。霧島山麓の都城盆地です。(焼酎「黒霧島」の都城。地鶏もおいしいです。)
近くの公立高校に体操部のあるところがなかったので、宮崎大宮高校に進学しました。田舎は公立志向が強いのです。高校へは、当時宮崎大学へ通っていた姉のアパートから通いました。(3年間、お弁当を姉に作ってもらっていました。感謝・・・)
筑波大学体育専門学群へ進学のためにつくば市(当時は桜村)へ来ました。つくば科学万博の年(1985年)でした。噂に聞くと、科学万博で開発が進んだそうですが、それ以前は何も無いところだったそうです。先輩に聞いたところでは、週に一度土浦や東京へ買い出しに出ていたとか・・・。それから約20年になります。茗溪に赴任したのは12年ほど前で、その年に生まれた子供たちが29回生に入ってきていますね。
- 体操を始めたのはいつですか?
体操は中学校で始めました。現役選手としては31歳の全日本社会人大会(北九州)が最後になりました。20年くらいは選手としてやりましたね。
- 体操を始めたきっかけは?
小学生の頃から好きでした。好きだったのが一番です。父親も好きで・・・ 私は知らなかったのですが、中学校に入学したときにクラブの父母会があったそうで、父親は体操部の父母会に参加していたようです。父親は、「息子はここに入るものだ」と決めていたみたいでした。気がついたら体操部員でした。
- お得意な種目は?
今までで結果が一番よかったのは、東日本で鞍馬4位と、インターカレッジ(大学生の全日本選手権)で床の8番です。鉄棒は九州で一番になったことがあります。好きなのは、鉄棒・床です。
- 大きな大会に行かれると審判席に座っていらっしゃいますね。
採点種目で人の主観が入るのでその辺を公平にやるために大きな大会になると審判の所属をばらします。たとえば、全日本などで、企業ばかりに偏らないとか、大学ばかりに偏らないとか。筑波大・日体大・順天堂大など強いところばかりに偏らないように各チームから1〜2名推薦で出したり、日本体操協会がバランスをみて依頼してきたりします。私は筑波大からの推薦で出る機会が多いですね。
- 審判は資格がありますか?
はい。最初は3種から始まります。国内の一番上には1種があって、その中でも国際審判を希望する人たちには国際審判の資格があります。私は国際を持っていますが、国際審判はオリンピックにあわせて4年ごとに更新していきます。そのたびに外国語でのペーパーテストをやります。なかなか緊張します。私にとっては4年に一度の語学の勉強です。
体操の発祥はドイツなのと、私の専門としてきたスポーツ運動学の文献はドイツ語がほとんどでしたから、試験はドイツ語で受けます。4年に一度のオリンピックのような受験勉強になります。
- それはどなたもドイツ語ですか?
ドイツ語か英語です。多くの人が英語だと思います。筑波(大出身)の人たちはドイツ語を大学時代勉強しているのでドイツ語が多いと思います。
- 体操にドイツ語が出てくるなんて思いもしませんでした。
そうですね。大学時代の主専攻の“スポーツ運動学”はもともとはドイツで興った学問です。私の大学の偉い教授がドイツから日本に輸入してきた新しい学問だったので、文献の多くがドイツ語になってしまったのでしょうね。
- “スポーツ運動学”って?
スポーツ科学では、人のやるスポーツを生理学であったり、栄養学であったり、バイオメカニクスであったり、いろいろなものの見方から輪切りにしていきます。部分部分でしか見ないことになります。部分部分で理論としてわかっても、実際にやるのは人ですから、トータルで考えないと現場で生きた知識になってはいきません。それを串刺しにしてまとめたような学問がスポーツ運動学です。心理学的な内容が入ったり、バイオメカニクス的な内容も組み入れたりします。
ベテランの先生で教え方のうまい人がいますよね。その周りにいる子たちは本当に上手になります。「なにがいいのだろう?」とみていますと、それは指導者の勘であったりするわけですが、それは「何だろう?」を研究できる面白い学問です。
自分でも演じて、教えて、ということが長く続いていたので、自分なりの技のコツや指導のコツをスポーツ運動学的に理由づけて教えるときのアドバイスの一言にしています。自分で教えた内容を自分で実際に試して、「ここはちょっと違うぞ」ということを繰り返しながらのここまでだったと思います。
- その経験が教師になろうという気持ちにつながっていったのですか?
一番は体操を使って何か仕事ができるかな?と考えたときに教師でした。高校2年生くらいの時に考えていました。その後大学に入って選手を続けたり勉強を進めたりして気持ちが変わっていくことは変わっていきましたが、最終的には落ち着くところに落ち着いたかな、と考えています。大学院生の時に研究職に興味がわいて、「体操の研究」、「コーチングの研究」をやってみたいという気持ちが強くなった時期もありました。茗渓か大学か就職先を悩みましたね。大学時代のテーマが「ジュニア育成」で、小・中・高をターゲットにした育成研究を考えていました。茗溪は中・高ですし、近くに小学生の体操クラブもあったり筑波大もあったり、近い環境に小・中・高・大と揃っていて、国内外でのトップ選手もいるので環境としてはとてもよいなと思いました。実際に教えながら、いろいろな層の選手と触れあいながら、自分の研究も進めることができるという気持ちで、最終的に茗溪に決めました。

- 今にして思えば、筑波大も近いですし。よい環境ですね?
はい。言葉は悪いですが、研究という面でもやりやすい環境です。何と言っても、子供たちに熱意を持って話しかけるとしっかり応えてくれますので、気持ちいいですね。
- 新しい体育館ができて環境が整いました(20周年記念で)
本当にありがたい話で、こんな話が湧いて出てくるとは思いませんでした。もともと考えてみたら中学校・高等学校の2つの学校が1つの施設で授業や行事、部活などをやっていたのでかなり無理がありましたね。雨が降ると体育の授業が自習ということもありました。今は解消されて、クラブ活動もその恩恵を受けています。ピットという安全施設もつけてもらいましたので、練習の仕方も変わりました。また、体操をするためには器具を準備しなければならないのですが、選手が少ない時には準備に20〜30分かかっていました。それが今では短時間でできるので、練習時間も確保できるようになりました。器具も整って来たので本当に以前に比べると幸せな環境です。
- 今までの人生で一番嬉しかったことはいかがでしょう。
いっぱい、本当にいっぱいありますが、まず 茗溪との出会いがあります。ここはとてもよい環境で、入った時に「こうしたい!」と思った気持ちを今でも同じように持ち続けていられます。ということは仕事をする場として自分にとてもあっていたんだ、と思っています。生徒にも夢を持って、社会でどういう活躍の場があるのか、探らせています。大学にも夢を実現するために勉強しに行くんだ、って話しています。ただ、今の社会では「私はこのようになりたい」と夢に直結した人生というものはなかなか難しい、というのが現実です。行った先々で自分がどう見方を変えていくかによって、よい職場にもなり、そうではない事もあると思います。23回生には卒業の時にそんな話をしましたね。
あとですね、コーチとして勉強してきて15年くらいになります。その中で教えていた小学生が全国大会で優勝したことが嬉しかったですねぇ。優勝をねらってはいますが、なかなか日本一にはなれないものです。その中でいろいろな条件がかみ合って優勝できたことは、その子にとってもよかったし、コーチとしての自分にとってもとても幸せでした。教えはじめて4年目でした。「やればできる」という気持ちが起きたのはその頃ですね。
昨年インターハイに地元枠でしたが、男女揃って出場できたことも嬉しかったことのひとつです。もちろん選手の頑張りが一番なのですが、選手が出るために、御父母の応援があったり、体操部のOBや筑波大の先生方など、いろんな人たちの応援があって茨城のインターハイは演出できたのかな、と思っています。特に男子の場合は、僅か0.1点の差での出場権獲得でした。団体戦は、規定演技と自由演技の36演技で総合360点満点です。その中の0.1点です。痺れましたねぇ・・勝つつもりでいたのですが、桐創祭の直後の試合でしたので練習が不十分だったのでしょうね。ミスが重なってしまい・・・いま思ってもゾッとしますね。勝負事は厳しいです。
大会で賞状がもらえるのは、子供たちと気持ちが一緒になって前に進んでくることができた結果だと思います。よく私が必死になってしまって空回りすることもあるのですが、子供たちがそれに絡み付いてきてくれるので嬉しいことですね。
自分自身高校時代はインターハイに幸い2度個人で出ることができましたが、2回とも予選落ちでした(今の教え子たちの方が当時の私より上手です)。その後、大学に入っていろんな人と出会って、サポートを受けて大学3年生の終わりくらいから団体レギュラーとして出られるようになりました。筑波大はインターカレッジで優勝することを毎年目標としてやっているので、高校時代に考えていた体操とは全く違いました。ただそんな中に自分を置いてがんばっているとそこに近づいていけるようになりました。環境が人を育てる力は大きいなという気がしています。残念ながら優勝はできませんでしたが、団体3位に入ったという経験は自分に自信を持たせてくれていると思います。ただ、優勝できなかった事は暫くはつらい思い出でしたが、今になってみると優勝という目標を持つことができたということ自体、素晴らしいことだったと思います。
目標が大きくなればなるほど、夢ではなく現実的な目標としてがんばっている子たちにとっては、負けは負けになってしまいますね。努力の価値づけはコーチの仕事のひとつという気がします。どんな大会でも優勝することを夢ではなく現実の目標とすることができる幸せ。それだけ選手のレベルが高いわけですから、そのすばらしさを子供達には知らせてやりたいものです。負けは負けではないですね。
その他、茗溪はとてもアットホームな学校で、子供たちととても近い関係で接しているので、泣き笑いをともにしながら一緒に生活していきます。
卒業の日に子供たちがいろんなバリエーションで声をかけてくれましたが、とても嬉しかったです。人生の一大事の受験に立ち会うわけですからね。いろいろな結果が出ましたが、みんな同じように声をかけてくれて、「よかったな〜」という気持ちになれました。受験を最終目標にしていない学校なので、得たものはそれだけではなかったんだな、と思いました。辛い思いはたくさんしていると思いますが、トータルとして、前向きな気持ちで「よかった」と卒業できる子が多いというのは、また、受験を失敗していても「がんばったな」という気持ちで卒業できるのは茗溪なのかな、という気がします。いろんな形で多くの学年に関わっていますが、毎年いろんな形での感動がありますね。
29回生との新たな出会い。これまた嬉しいことです。この3月まで高3でしたからね、ギャップがあります。まだ天使の羽がついているような子たちです。話し言葉もついつい変わってしまいます(笑)。ギャップを感じながらも真っ白な子供たちと関われることは嬉しいことです。新たな出会いです。どの学年もいろいろなカラーを持っていますから、これからが楽しみです。元気よく行きます!
学校にいて気持ちよく仕事ができることは、とても嬉しいことです。これは、生徒のおかげもありますが、同じくらい先生たちがいいからだと思います。「生徒たちのために何かしてやろう」という先生ばかりなので、行事を引き継ぐとどんどんアレンジが加わって重くなってしまいます。本当にどの先生も一生懸命です。職員室はなかなか電気が消えない所です。
あと、これは一番に言っておかなくちゃ・・・・結婚したことですね。ホッとできることで嬉しいことでしたね。長男が生まれた時はさらに嬉しかったです。それと同じように二人の女の子が生まれたときも嬉しかったです。家族が増えるって、ものすごいことですね。人口が増えることは嬉しいことです(日本では)。ご父母の方と話をしていると、子供がまだ小さい今が華だそうですね。満開の今が幸せです。家庭を大事にしています・・・、と外面だけは・・・(笑)。
- 悲しかったことはなかなか話し難いとは思うんですが。
そうですね。嬉しかったことの半分くらいはあります。
体操では苦労しているので、涙を流したことはありますね。大学でレギュラーになりはじめていた頃、大きな試合の前に、技のポイントが狂ってしまってレギュラーから外された事がありました。ひとつの技が狂ってしまうと演技全体が狂ってしまいます。ひとつの種目に不安があると全部で6種目ありますが何となくガタガタっときてしまいます。あの時は辛かったですね。
ですが、その時の経験は今に生きています。体操に限らずいろんな場面で子供たちにスランプがありますが、そのような時に応用が利くかなと。すべては基本的にプラス思考です。でも辛かったですね。
あと、大学院受験を失敗した事ですね。それまで順調にきていましたから、大学院もうまくいくだろうと思っていましたが、うまくいきませんでした。過信だと思います。受験勉強に対する気持ちが甘かったな。ものの見方が狭かったと思います。
この体験もプラスに考えています。今思えば、大学院は2年間ですが、2年間では論文は書けなかった、という気持ちが強いです。浪人生ではあったけれど研究は始められましたし、大学院の授業にも出させてもらっていましたので、研究は実質3年間できました。奥が深いので、時間をかけてできてよかったと思っています。
このときの経験が今の受験指導に生きています。受験の失敗は決して無駄にはならないと思っています。ただ、受験に失敗したことを反省して一生懸命やればの話ですが。一生懸命やればその1年は決して無駄にはなりません。ですから、浪人生を応援する気持ちも自然と大きくなります。そこで立ち直るとその経験は必ず人生にプラスに働きます。
教員をやっていて一番悲しいと思う時は、生徒たちが失敗をした時です。その時にうまく反省を促せないと自分に対しても残念だなと思いますね。自分の力量を反省しますし、何とかうまい形で反省して欲しいと思います。長くやっているので、成功もあれば、失敗もありますし、悲しかったこともあります。それは御父母との関係でも同じようにありますね。子供たちの立ち直りを応援するために私達がいるわけで、お互い協力しながらやらないと本当にうまくいかないですね。そういうことを経て出てくる言葉が「一緒にやっていきましょう」です。
本当にうまくいかない時は自分の力だけでは絶対うまくいきません。問題が深刻であればあるほど担任の力だけではうまくいかない、という気がします。自分が40数人の子供たちをメインで責任を負いますが、担任になりたての頃は絶対この子たちを「自分が何とかしてやるんだ」という気持ちがとても強くて、出てくる失敗がすべて自分の責任だと思っていました。「自分一人で解決しなければ」と一生懸命がんばりますが、子供たちの成長の過程で起こる失敗はそんなに甘いものじゃないですね。決して一人で解決出来るような問題ではなくて、違う立場の人がポロッと言ってくれる一言が解決の糸口になったりすることがあるので、チームワークがやはり大事だなと思います。
- 教師という仕事も時間がかかるものですね。
そうですね。そうだと思います。ただ、その時のキャリアによって出せる力というものがあると思います。
新人の人は新人の思いきりの良さだとか、フレッシュな気持ちだとか覆い隠す事のない面白さがありますね。もちろん新人らしい失敗はありますけどね。ベテランの人にはうまさがあります。やはり自分の話していることに裏付けがないと自信を持って話せないですから、経験は大事ですね。

- 将来のことはいかがでしょう。
10年後の自分
茗溪に入って12年。干支が一巡しましたが、基本的なポリシーは変わっていないような気がします。多分10年後も同じようなことを話していると思います。もう少し枝葉を増やして話せるようになっているかもしれませんが・・・・大筋は変わらずきていると思います。
この10年後・20年後・30年後って質問面白いですねぇ。10年後は47歳ですね。29回生はもう卒業しています。恐い話です。僕は新しいことにチャレンジしていると思います。体操もそうなのですが、何か目標を持ってやっていないと、その場にとどまるというのはつまらないことです。じっとしていられないので、何かやったら次、次、と新しいことにチャレンジしているように思います。
できれば教え子の中からそろそろ日本代表が出てくれるといいですね。20回生の教え子が昨年埼玉で行われた全日本選手権の種目別で4位に入りました。これは素晴らしいことです。ついに恩師を越えたと・・・(とっくに越えてるんですけど)・・(笑)嬉しいことですね。日本代表になると世界でのメダルも見えてきますので、夢はでっかく、と思います。
卒業生に世界中で活躍する子が出て欲しいですね。茗溪を通過して宇宙飛行士になった子もいますし、世界で活躍している子もいますけれど、もっと身近な庶民的な職業でいいと思いますが、生き生きと仕事をしている卒業生に茗溪に帰ってきて話をして欲しいと思います。私が最初に卒業させた子供たちは、今年ようやく社会人1年目になります。まだまだこれからですね。10年後、彼らが社会に出てどういう大人になっているのかをみるのが楽しみです。
ついでに、趣味でゴルフをやっているので(なかなかやれませんが)うまくなっているといいな、と思います。
- 20年後の自分
57歳。定年を目前にしていますね。最後のチャレンジを考えていますが同時に第2の人生を考えている頃でしょう。
茗溪で最後の力を絞り出し、HRと部活をやっていると思います。茗溪生から日本代表累積5人くらい出ているといいなと思います。ゴルフは不動のシングルヘ。57歳とは思えないような若々しさを保ちつつがんばっていると思います。話す内容も感動的な内容が出てくると思います(笑)。お酒が好きなので、お酒を密かに造り始めようかな、と(禁止されているみたいですが・・・)。自分の楽しみは自分で実現したいなと思っています。
- 30年後の自分
67歳。どう考えても茗溪を退職しているので、近隣にある「さくら体操教室」の名誉コーチとして若手の邪魔をしながら、オリンピック選手を育てているかもしれません。まだまだチャレンジは続いていると思います。ゴルフは腕に自信がなくなってくるのでクラブにお金をかけて技術(スコア)を維持しようかと思っています。楽しみのお酒はマニアの間でちょっと有名になっているかもしれませんねぇ・・(笑)
67歳といえば30年後なので送り出した卒業生も社会で落ち着いた感じでやれているでしょうか。そういった意味では夢があります。先生ってこう考えるといい仕事だと思います。その場で終わらないというのが面白いですね。子供たちがいろいろな所で活躍しているでしょうから、そんな子供たちの活躍を聞くのが老後の楽しみのひとつかもしれません。最初の卒業生は30年経つと50代ですね。管理職世代ですか?驚きますね。茗溪生はきっといい仕事をしていると思います。それを夢見て今の子供たちを一生懸命育てる・・・と。
30年後になると親子3代で茗溪です、ということもあるかもしれませんね。
- 日常の生活で一番大切にしていることは?
何をやる時にも誠実・全力かなと。人間関係・・・・大切だなと思います。いろいろな人に助けられているので、そういう人たちと長い付き合いができているのは誠実・全力かな、と思います。その場を取り繕っていても、そのうちバレてしまいますからね。いつでも誠実・全力の姿勢でいますと、いろいろな方から応援してもらえるようになります。ピンチに立ったような時に、知らないうちに誰かが助けてくれたりします。子供たちとの関係もですが、御父母との関係でもそうです。そんな応援団のおかげで、御父母同士の情報交換の際、私達が伝えたいことがうまく誤解のないよう噛み砕かれて伝えられていきます。
自分をみていて不器用だなとイライラすることもありますが、不器用でも一生懸命時間をかけてやっていると自分の周りの関係がよくなってくる。現状がよくなってくる。夢は近づいてくる。という気がしています。それを信じています。
- 茗溪の保健体育の特徴・保健体育の教育を通して生徒に伝えたいこと
授業では、体育科の先生が各自の専門種目を教えるので内容的にはレベルが高く、また、ポリシーを持って教えているので茗渓生の運動能力は質が高いと思います。入学してくる時は他の学校と同じくらいの運動能力ですが、卒業する頃にはたくましく成長しています。体育も含めていろいろな行事が子供たちのためになっているのかなと思います。
保健分野でもそうだと思います。いわゆる「雨降り保健」ではなく、年間を通じてカリキュラムが組まれています。自分達の生活に実際に使えるような知識を教えるつもりでいます。自分の生活に生きる授業を考えています。けがをした時の応急手当の方法とか。高校3年生の受験期にも保健の授業が一コマありますが、ここでは性に関わる問題だとか、結婚だとか、老後の問題だとか、おそらくこの授業で学ばないと学ぶチャンスはない事をやります。社会に出ると、自分で求めなければ教えてもらえないので・・・。
保健体育を通じて伝えたいことは、自分の能力に気づかないまま過ぎていくことが多いということです。もっともっと発掘していくと気がつかない能力がどんどん出てくると思います。「自分の知らない能力が体の中にはあるわけで、その能力をどうやって発掘するか」を保健体育では知ってもらいたいと思います。
自分の可能性は知らないところにたくさんあるので、チャレンジして欲しいと思います。人生の中で授業でしかやらないことがたくさんありますから最初は嫌いでもそのうちに気がついたら好きになっていて、さらに気づくとうまくなっている、といろいろあります。そういうチャンスだと思って授業をやって欲しいですね。
「ひょっとしたら何かいい方法を人が教えてくれるに違いない」というのは学校にいるうちにはありますが、社会に出たらそれはありません。授業の中から自分で切り開いていく自分の方法を学んでいって欲しい、と思っています。ごちゃごちゃ言う前に行動を起こしなさい、と言いたいです。有言無実行の無力さと、不言実行のかっこよさをわかって欲しいと思います。
- 個人的な活動 ライフワーク
ライフワークは体操に関わる事です。日本の体操・世界の体操を考えながら教えています。と同時に考えているのは体操競技の地域への普及です。体操から学び得られる喜びを広めていきたいです。
あと、「喜び」の研究です。研究・・・というとカッコイイですが、特に学術的なことを考えているわけではありません。喜びは人が行動を起こすときの原動力になります。子供たちを動かす時って動機付けがとても大事で、喜びを伝えていくことが大切なのかな、と思っています。面白そうに仕事をしている人たちをみていると何が原動力なのかなと思います。「喜び」とは、何にでも利くおまじないのようなものだと思います。
- 茗溪の父母や父母会活動に対しての率直な意見・感想
御父母の方々に対しての率直な意見・感想は「一生懸命にがんばっていらっしゃるな」と。子供を思う気持ちから、前向きに活動してくださっていることを感じます。キャンプであったり、職業観セミナーであったり、今日のインタビューであったり。熱心だなと感じます。
私も子の親になって、勉強する子を持つようになって、皆さんとだんだん共通する部分も多くなって来ました。今までと違う気持ちで御父母の様子を見ています。皆さんの子供を思う気持ちはとても大きくて温かだなと思います。そういう御父母の気持ちを私達が理解できていれば、またそのような気持ちで子供に接していけばプラスになると思います。父母会でも話す内容が変わってきているように思います。「ご苦労様です」という気持ちが先に立ちます。
1年生(中学1年生)の時と、6年生(高校3年生)の時と悩みは違いますが、子供のことを思って悩んでいるという点では同じです。そういう御父母の気持ちを思うと、軽い気持ちでは仕事はできないなと思います。子供たちに立派になって欲しいという気持ちと同様に、御父母の学校に対する期待にも応えなければいけない、という気持ちを持っています。
「子供が苦しんでいる時に一緒に悩んで応援していきましょう」そういう気持ちでいることを理解して欲しいと思います。ただ、子供と同じ視線で悩む事は大切なことですが、同じ視線だけではいけないと思います。子供の悩みに対しては一緒に悩みながらも違う立場で冷静に見なければならないと思います。問題が深刻になればなるほど、親や教員の姿勢は重要になります。子供と一緒に悩みすぎて、一緒にパニックに陥ることのないよう、お互い気をつけていかなければなりませんね。
これまで、私たち教員と生徒のトラブルや、教員と御父母の皆様とのトラブルを多くの御父母の皆様の御協力により解決してきたケースは決して少なくありません。今後とも学園への御理解と御協力をお願い致します。
長時間にわたりありがとうございました。(編集委員一同)

国語科:窪山剛司先生 [先生の紹介]

書道の窪山先生は、読売書法展・漢字部門で連続入選され、読売新聞社賞を受賞されました。また、日展にも連続入選されています。
2003年11月21日(金)茗溪学園書道準備室にて、長時間にわたりインタビューにお答えいただきました。
ユーモアを交えた和やかなお話の中に、生徒達への熱い想いや人生に対する真摯なお考えが隠れています。どうぞお楽しみください。
取材協力 湯原さん(26・28)
父母会HP編集委員会 齊藤(28)
−5回目の日展ご入選、おめでとうございます(今回は約11倍)
いや、お恥ずかしい。あんまり胸張って言えないですよ、15回も落ちているんですから(笑)。ずっと落ち続けて、他の人とは違う「自分の字」を持ち始めてからですね、評価してもらえるようになったのは。(作品の)意味は・・・かなり前に書いた物なので(笑)。10月17日が搬入日で、京都で表具するために1ヶ月位かかるので、書いたのは9月14,15日ですね。日展は、誰でも出せます。だからといって、誰でも出しちゃいかんのです。大学生位で応募しても、ちゃんと(審査で)見てなんかもらえませんよ。出品した時点で、あるレベルは超えているわけです。

【第35回日展入選作「冠」】
−ご出身は?
福岡です。生まれてから高校卒業まで18年間。大学が筑波大学で、それからずっとこちらで、今年で23年目です。
−教師になったきっかけは?
高2の頃は、中学時代にお世話になった先生の影響と得意教科だったこともあり、大阪教育大に入って数学か理科の教師になろうと思っていたんです。大阪を志望したのはとにかく福岡から出たかったから。ところが「おまえが主要5教科を教えたら生徒がバカになるぞ。それよりも書道界のスターになれ。」と書道部の先生に言われて・・・。それが妙に説得力があって。スターという言葉に弱かったんですね(笑)。
−茗溪学園との出会いは?
大学卒業後、研究生として残ったんです。大学院の試験に落ちてしまって、奨学金も出なくなるし、進学するつもりで就職活動もしていなかったし。教員採用試験は受けましたが、2次試験が大学院の試験と重なってしまったので・・・。
それで、非常勤の講師を探していたら、茗溪とA校とB校が募集していまして、全部見学に行きました。A校は自分の母校と雰囲気は似ていたんですが、書道と国語の授業を参観して・・・やめました(笑)。B校は当時創立2年目位だったと思うのですが、今とは全然生徒の雰囲気が違っていて・・・やっぱりやめました(笑)。
茗溪もできて7年目位で比較的新しい学校だったんですが、生徒がすごく素直だった。環境が一番良さそうで、1年だけのつもりだったので決めました。その時は大学院に進もうと思っていたし、母一人子一人なので九州に帰らなければいけないと思っていたので。
でも、教え始めて5月頃には「ここで書道の先生になりませんか。」とお話があって、何度かお断りしたんですが、NOと言えない状況を作られてしまって(笑)。誘ってくださった当時の教務部長と国語科の小出先生ご夫妻がいらっしゃらなければ、ここにはいなかった。まあ、運というか、縁というか、運命ですかね。
−書道を始めたきっかけは?
小学校4年の時に両親が離婚して母子家庭になりましてね。母が仕事に出ることになって、このままではろくな子供に育たないからと、週6日見てくれる習字塾へ私をぶち込んでくれまして(笑)。学校からまっすぐ習字塾へ行って6時までお習字。そこでご飯を食べさせてもらって、その後空手を教わって、お風呂に入ってから家に帰る。これを小学校6年の2学期まで続けました。
−学生時代のお話
中学時代は運動一筋で、小さな学校だったのでサッカー部と陸上部、そして卓球部を兼部していました。一番力を入れていたのはサッカーです。書道は、「女・子供の仕事」みたいな気がして、提出しなければならない宿題も出しませんでした。
ところが、高校に入学してクラブ活動の見学に行ったら、サッカー部は全国レベルで100人位部員がいて、「ああ、自分のいるところじゃない」と的確な判断が働きまして(笑)、入れば誰でもレギュラーというバレーボール部に入部しました。ところが、病気で2週間入院して戻ってきたら、バレー部はクビになっていました。
そこで、以前から自分に目をつけていたらしい書道の先生に、「丁度欠員ができたから書道部の見学に来い。」と連れて行かれて、入部する羽目になったのです。その後は、皆勤です。学校も1日も休んでいません。

−高校の書道部
書道部は1学年4人しか入部させないんです。展覧会の出品が1校8人までだからなんですが。高2の終わり頃に書道界のスターになろうと決めてからは、それはものすごい量の宿題が出ました。部活を終えて家に帰ると10時。ご飯食べて風呂に入って、11時から始めるんですが、朝の4時位までず〜っと書いているんです。2時間だけ寝て、6時半にはバスに乗って登校です。それを高校3年の1年間、ずっと続けました。土、日は、更にすごい量の宿題が出まして。本を3冊渡されて、それを全部書いてこいというものなんです。「ええ〜、できません。」と言ったら殴られましたね。「やってみる前にできないとは何事か。」って。2日間徹夜して書くんですが、やっぱりできない。すると、「根性がない。」とまた怒られて。1年間続いたのは、気が小さくてNOと言えないから(笑)。その頃の字をみると、やっぱりヘタです。うちの生徒の方が、はるかにうまいですよ。
−号:墨翠(ぼくすい)
高校卒業の時に、書道で大学に行くのだから・・・と高校の先生が付けてくれました。「翠」というのは、翡翠の翠ですが、「若い」という意味があるんです。「墨が若い」という意味で、つまり下手くそということなんですよ。もう一つは中国語では「翠」は緑色のことで、中国人が好む色で「美しい」という意味も含むのですが。「墨(書)が美しい」という意味になるように目指していますがね。難しい号を付けられちゃったなぁと思います。
−茗溪の書道教育
字がうまくなるためだけじゃないんです。情操教育なので、自然に身に付けていくものですね。テストで確認できるものでもないし、一生かけて続けるものです。ですから、怒ってまで教えようとは思っていません。茗溪を卒業して何かの時に、「あ、書道でもやってみようかな」という気持ちを持ってくれれば・・・とは思っています。私が書かせたいものを自由に書かせているので教科書は使いません。3年生からは選択授業ですが、高校生になると普通は部活でやるような作品を書きます。教室では場所がないので、廊下にずら〜っと並べてね。手を抜こうと思えば「(お手本)見て、書いて、出して」でも済む教科ですよ。でも、自分が生徒達にやってやれることは、できる限り与えてやろうと思っています。それが面倒くさい、煩わしいと思ったら、(教師を)辞めたほうがいいと思いますね。彼らが持っているものを最大限引き出してやりたいと思っています。
私は、大学3年の時から今のお師匠さんに師事していますが、今でも京都までお稽古に行きます。今思うと若かったせいか、もったいないことをしたなと。若い頃はただ通うだけで、お師匠さんから盗んでやろう吸収してやろうという気持ちがなかった。これは生徒達にもよく言うんですが、自分達の恵まれている環境に気が付いていないですね。他のカリキュラムにも言える事ですけど、きっと卒業して他の学校の人と交流すれば、いかに茗溪がいい学校で恵まれていたかということに気が付くと思いますよ。

【1mm1万円(!)の墨と現在ご使用の筆】
−書道が上達するには?
みんな最初はヘタですよ。素質というものは、ないです。書道のうまくなる人というのは、素質ではなくてその人の人格的なものがとてもある。練習してもうまくなる人とならない人がいて、うまくならない人はそういう書き方をしている。言われたとおり一所懸命に書いていなくて、気持ちがほんの少し他に向いていたりしてね。
書道がうまくなる条件というのはいくつかあって、一つは教えている先生が上手なこと。先生に近付くことはあっても、先生よりうまくなることはないですから。二つ目は素直なこと。教わったことをそのまま「そうか、そうか」と思って疑問を持たないで書くことです。三つ目はあきらめないこと。あきらめてしまったらそこで終わり。そこで止まってしまいます。これは、自分にも当てはまります。これで完成したということはなくて、一生続けていくものですから。あきらめた時点でゼロになってしまいます。やらなきゃという気持ちがあれば、どんどん成長していきます。
−今までの人生で一番嬉しかった事
間違いなく子供が生まれた時ですね。その時は、「もうこの子が大きくなるまで死ねない」と思いましたね。すごい責任感というか。子供は女の子3人ですけど。
書道をやっていて一番嬉しかった事は・・・書道の教員になったことですね。人と話すことが苦手だったのですが、教育実習に行ったら、生徒達と話すことが楽しくて。教員になって本当に良かったと思いますね。
−今までの人生で一番悲しかった事
両親が離婚した時もそうですが、父親の死に目に会えなかったのが、つらかったですね。20歳の時だったんですが、母方の祖父が亡くなって九州へ帰ったら、「実は父親も亡くなっていた」と聞かされまして。墓にすがって泣きましたね。ありがとうと言えなかったし、さよならも言えなかった、というのがつらかった。
大学時代は仕送りも無くて逆に仕送りしていたんですが、その頃すごく可愛がって頂いてお世話になった方たちがいまして、ありがたくて幸せで泣いたことはありましたね。自分は恵まれている、救われているなぁって。これは嬉しかった事になるのかな。
−10年後、20年後、30年後の自分
将来はこれ(書道)で食べていくことが目標ですが、今は教師と書家とどちらがいいかと聞かれたら、間違いなく教師を取りますよ。趣味でやっていれば楽しいですが、生業になると苦しい。それに書家にやりがいを見出すことは難しいです。でも、教師は本当にやりがいがある。定年後は筆一本で食べていけるようになりたいし、その頃には人が付いてきてくれる書家にならなければと思っています。字がうまいだけじゃなくて、人格的にもね。目標といえば、まあ文化勲章をもらうとかね(笑)。私のお師匠さんが現在80過ぎですが、その年齢になった時にお師匠さん位の字が書けるようになることが大きな目標ですね。
書で一本立ちして教師を辞めたらね、営業部長は杉山先生。杉山先生は口がうまい!事務局長は川島先生。川島先生は頭がいいんだ。経営者になったらいいと思うよね。もう仮契約は済んでいるのでこの二人にお願いして、僕は書の団体の教祖でね。年商2億が目標(笑)。

−日常生活で一番大事にしている事
子供や家族は別格ですからね、あれは自分の命みたいなものですから。それ以外となると、やっぱり生徒ですかね。大事にしてますよぉ、気が付いていないかもしれないけど(笑)。当然厳しいことも言いますけど、それはどうにかしてやりたいと思うから言っているのであって、どうでもよければ何も言いませんよ。家族を除けば、やっぱり26回生ですね。(注:窪山先生は3年生〔26回生〕学年主任)
あとは、座右の銘じゃないけど、「悩むならやってみよう」ということです。後悔するよりは、失敗してもいいからやってみよう。行動も1歩引くと、そこから出られなくなりますから。1歩でも2歩でも前へ歩いていかなくちゃいけない。そこから、自分が生きてきた証が残るんじゃないかな。
−茗溪の父母は?
自分が若いので(笑)父母の方とお話するたびに緊張してドキドキしますよ。
26回生は本当にいい関係だと思います。役員さんを中心にキャンプなどのボランティアに参加された方たちへと父母の間で輪が広がっています。ボランティアも、参加するというのではなくて、自分も楽しむ気持ちで気軽に出ていただきたいですね。父母の方たちとお食事会など開くといろいろな意見が、それも本音の形で出てきます。自分の子供だけじゃなくて、学年や学校全体を考えてくれますし、疑問や不満も、父母同士の話で納得してもらえたり、誤解が解かれたりして、こちらとしては応援団のようで本当に助かっています。至れり尽くせりという感じで、ありがたいですね。
国語科:杉山明信先生 [先生の紹介]

2003年7月26日(土)茗溪学園会議室にてインタビューにお答えいただきました。
後半はご趣味の万年筆も披露していただきました。
大いに盛り上がった内容となっております。どうぞお楽しみください。
父母会HP編集委員会 村田(22・27)木川(23)間中(23)堀井(23)
−ご出身は?
栃木県で生まれて栃木県で育ちました。小中高と栃木県。二宮町というイチゴの生産が日本一で田舎の素朴な町です。二宮尊徳が農村復興をやった関係で二宮町という名前が付いています。大学は家から通えないところということで、東京へ出て行きました。
−教師になったのはいつですか?
大学卒業してこの学校の非常勤になったんです。その時同時に筑波大学での研究生をやっていました。それが一年間、次の年から専任になりました。茗溪ができて4・5年目から20年くらい居ることになります。
−教師になったきっかけは?
元々教師になりたかったので大学も教育学部に行きました。最初から教師になるつもりでした。とにかく早く教育現場に出たかった。でも、今考えると大学院に行っておけば良かった、と思いますけどね。その頃は早く仕事をしたかった。
−教師のどんなところに魅力を感じられたんですか?
人を相手にすることです。話したり人に伝えることが好きな性分だったと思うんですよ。高校生の頃から家庭教師をやって知り合いの中学生などを教えていました。成績を伸ばして、教えてた子の親が大喜びしたりとかあったんです。40点ぐらいしか取れなかった子が90点ぐらい取るようになると、親は本当に喜んで図書券どっさり余計にくれました。自分の入試の間際までやっていましたね。「もうすぐ先生の入試だからもういいです」と向こうから断ってくるまで教えていました。きっと好きだったんです、教えるのが。
−先生にとって、天職だと思っていらっしゃいますか?
面白いし、やりがいを感じてやっていますけど、天職かどうかは分かんないです。大学の友達からは「お前だけは教師にはなってはいけない」と言われましたから。まず話し方に冷たさがある、気性が激しすぎるとか・・・。今でこそ同僚から「気が長いよ」とか言われることもありますが、当時は本当に気が短くて激しい気性でした。和やかに酒を飲んでいても、いつの間にか相手が箸をブチ折って怒っていることがありましたね。「お前とはもう絶対口をきかない」って。よほど腹の立つ話し方をしたんでしょう。

−茗溪学園との出会いというか、特に茗溪学園をお選びになった理由というのはあるんでしょうか?
紹介してくれた人がいたんです。国語の教師を探しているらしいと教えてくれて。それで見に来たら大西忠治さんという国語教育ですごい先生がいてびっくりしたんです。2・3年いっしょに仕事ができたのは、僕にとってすごく幸運でした。その後、都留文科大学の教授として出られてしまったんですが、その後も勉強会等で付き合いはありました。大西さんがいたから就職した訳ではないですが、ここで勉強させてもらおうかなと思いました。
−今までの人生で一番嬉しかったことは?
個人的にはいろいろありますけど、仕事に関わって言うと、やっぱり単独で本を出したことが一番嬉しかったですね、すごく。形になったなぁ、というのと、とても苦しみましたので、その分嬉しかったです。共著は十冊以上ありますが、単著は初めてでした。おそらくその本の執筆で最後の追い込みをやっていた数ヶ月間というのは、どんな受験生よりも机に向かっただろうなと思います。最初は1年ぐらいでまとめて、と出版社に言われていましたが、やり始めたら資料が集まらない。半年延ばし一年のばしで結局2年半かかりました。
単独著書 「『舞踏会』の読み方指導」
国語教育関係の研究会や学会で頼まれて作りました。芥川龍之介の『舞踏会』という作品をどのように教えるかという教師向けの本です。多くの研究論文があるんですけど、先行研究は殆ど網羅しました。やるからには全部網羅したかったので資料集めに時間がかかりました。
共著
−次期執筆のご予定は?
おそらく、依頼が来るのは教材分析に関するものでしょうか。あと、今の国語教育界には話し方や聞き方に重点を置こうという流れがあるんですが、そういうことについての実践を書く注文も来るだろうと思います。でも私自身が書きたいことは「読み方指導」、そっちの方が本当は書きたいです。
−題材としては?
書く書くと言っていて実現していないのが森鴎外の『舞姫』の分析です。もっと前は宮沢賢治の詩の分析だったのですが、これは2・3年前にようやくまとめました。

−桐創祭で演劇を指導していらっしゃいますが、そういう方面に行きたいという気持ちはなかったんでしょうか?
あぁ、僕はおそらく創作の才能はないだろうという気がしますね。完全にゼロから生み出すような作家的な力は自分にはないと思うんです。興味はありますけれど、やり出すと血を吐くようなことになると思うので、できないと思います。
−仕事で悲しかったこと
ひとつは教え子が死んだことです。これは辛かったです。卒業してからしばらくしての交通事故でした。もうひとつは大西さんが亡くなったことですね。他人が亡くなって涙が止まらなかったのはあれが初めてでした。僕が今教師をやっていて、やらなければいけないこととやってはいけないことの基本を教えてくれた人でした。一晩中怒鳴られまくったことがあります。大西さんがハウスマスターで私がサブマスターをやっていましたから「ちょっと杉山くん、来んか?」と呼ばれて夜12時頃ごろから飲み始め、最初は穏やかに飲んでるんですけれども、だんだん怒られてきて何時間も怒鳴れていました。でも怒鳴られるようになると認められたようなものなんです。大西さんは誰にでも怒鳴るような人ではないので、「俺も怒鳴られるようになったか」と嬉しかったです。腹も立ちますけどね。「何で明け方まで怒鳴れなきゃならないんだ」って。でも嬉しいもんです。そういうふうに思う人に対してしか怒鳴らない人でした。
−日常生活で一番大切にしていることは?
これはまた難しいですよね。生徒を大事にする。同僚を大事にする。仕事に関わる周りにいる人を大事に。
もう少し具体的に言うと、強いものには批判、弱いものには援助というのが信条です。それから「できなかったものには、できなかった理由がある」と必ず思うこと。色々ないい方があって「約束を破ったのには破っただけの理由がある」ということ。昔、大西さんとこんな話をしたことがあります。
大西:「杉山くん、誰かと約束してそれを破られたら怒るだろう」
杉山:「そりゃぁ怒りますよ」
大西:「約束を破られたら、悪いのは誰だい?」
杉山:「破った奴に決まってるじゃないですか」
大西:「君は責任ないの?」
杉山:「ないですよ」
大西:「だから君は駄目なんだ」
杉山:「どういうことですか。納得できません」
大西:「破られる程度の約束しかできなかった自分の力の無さはどうなんだい」
そう言われまして。教師って仕事はそこなんですよね。子どもと「勉強しような」「はい、わかりました先生、頑張りまーす」って言っても、子どもはたいてい約束破るんですよね。で、その時に「約束を破ったこの子が悪い」と思ったら教師の仕事は終わりなんで、「何でこの子にもっとやる気にさせられるような合意の作り方が自分にはできなかったんだろう」って思わなければ、教師というのはできないし、いつもこっちにその責任があるんだって思わないと駄目なことなので・・・そういうことを大西さんにごにょごにょ教えてもらったんです。
僕はプロで教師やっているんだったら大事なのは技術だと思っています。手練手管ですね。ハートがあるのは当たり前で、それがなかったら終わりです。ハートがあってもうまくできない人がいっぱいいて、医者でも同じですよね。患者を助けたいと思っているけれど、技術がなくて助けられないお医者さんがいっぱいるわけで。他の医者なら助からない患者を助けられたら、これこそプロですね。教師も同じです。生徒の気持ちを汲めるかどうかとか、どういう話し方のときに本題に入るかとか、細かい技術があるんですよ。その技術だけ覚えてもしょうがないんですが、でもハートがあれば何とかなるんだったら、プロの教師はいらないわけです。
人格で教育するということは、一面の真実ではあるわけです。人格に触れていくのは人格でしかないわけですから。でも、それをプロの仕事として給料もらってやるんだったら、それを支える技術がいっぱいないとだめなんですよね。まあ、人格がイマイチの僕は技術でカバーってことですね。でも、誰でも教師という仕事をできるかどうかっていうのは技術のレベルの問題だと思うんです。ここのところがうまく言えなくて、技術主義と言われることもあるんですが、僕は手練手管がとても大事だと思っていて、それがないと教育で飯を食う人間ではないっていうふうに思っているんです。仕事をするときに心掛けていることでしょうか。
−茗溪の国語科教育の特徴
一番際立った特徴は方法論がある、ということです。つまり、作品を読んで分かればいいのではなく、文章を読むための技術・方法論というのがあって、それを色んなタイプの文章を通して教えていく。生徒が未知の文章に出会った時にもその方法論を応用することによって読んでいく力を付ける。そういう考え方でやっているのがこの学校の国語の授業です。そこが一番の特色だと思います。つまり、『ごんぎつね』を読んで感動しましたとか、『羅生門』読んで感動しましたとか面白かったです、というのではなくて、『羅生門』を読んだ力が次に『こころ』を読む力になり、それが『舞姫』を読む力になっていくか、というところが勝負なので。そういう方法論の積み重ねを意識してやっているのが茗溪の国語科の一番面白いところで、僕がこの学校の国語科にいて一番勉強になるのはそういうところです。
もう一点は討論をものすごく多く行うというのが特徴です。茗溪に来た中学生に「先生、国語がすごく好きになった」と言われるとうれしいんですよ。「そうかい。どのへんが面白い?」って聞いたら「いっぱい話し合うし」って。文章を読むことも面白いんですけれど、話し合いをし、自分たちの意見をぶつけ合いながらある思考を集団的に練り上げる、という訓練が小学校に授業の中で十分にされてきていないと思うんです。それをやっているんです。
−その授業の積み重ねが、例えば桐創祭の企画を練るときにクラスで色々な討論がなされますよね。中途半端な意見などは必ず批判される訳じゃないですか。団体の中で自分の意見を通したり、団体をまとめ上げていったりという、将来大人になってから必要な力が国語科の授業の中で形成されていくんでしょうか。
それは思いますね。意見を表明するというのは難しいことで、お喋りとは違いますから。ボールを蹴らずに理論書だけ読んでいてもサッカーうまくならないのと同じことです。ボールを蹴ってみないと上達しないように、討論はしてみないと絶対うまくならないんです。
−うちの子は小学校時代「理屈っぽい子供」で発表は大好きだったのですが、‘ややこしくなる’と言われ授業では発表できなかったんです。茗溪に入って国語の授業で発表したとき、何を言っても聞いてもらえるって、それがすごく嬉しかったと感動していました。
思考というのは揺れないと深まらないんですよ。こうかな、こうかなというのがないと絶対深まって行かなくて、こうだと思いこんでいる思考というのはそれ以上深まりません。自問自答でもいいんですが、迷っている時が一番深まっていく可能性がある。だから集団思考のように複数の人間でやっているときも、プランをぶつけ合っているときが一番思考が深まっているときなんで、どんな突飛な意見であろうが、そういう意見が出てくるということがとても貴重なんです。そこで受け入れられるという経験はすごく大事なんです。
でも、また一方で、言ったことが必ず受け入れられる状況じゃないと言えないという子どももいるんです。例えば先生にいっぱい不満があって「あの先生最低」とか言うので「だったらお前、言いに行けばいいじゃない」「言ったってしょうがない、聞いてもらえないもん」「じゃあ、聞いてもらえなかったらお前言わないの?」「うん、ゴニョゴニョ・・・」。本当に言いたいことっていうのは相手が聞く耳を持とうが持つまいがこれを言わなければならない、というのがあるんですよね。そうなった時に言えるかどうかっていうのがその人間の本当の発信力になってると思うんですけど。
討論はある意味残酷な面もあります。受け入れられる側面もあり、笑われたりする辛さを乗り越えていく側面もあり。でも、辛いって言ってもたかが知れていますよ、授業中の討論なんて。そのたかが知れていることをちょこちょこ練習することによって、本当に自分の人生の中で辛いときにそれを乗り越えられる力が育っているかどうかが左右されると思うんです。
子どもを言い負かしてやることは大事なことですよ。論理的に言い負かされた経験のない子っていっぱいいるんです。理屈では親に勝ってばかりいてね。子どもから脱して大人になっていく思春期の子どもというのは、理屈の力を身につけていくので、その理屈の力を見せつけてくれる大人というのが周りに必要なんです。
−国語の教育を通して生徒に伝えていきたいことは?
思考力を鍛える、ということですね。現代文は言葉を教える科目ではなく、思考力を教える科目だと僕は思っています。言葉というのは文字を読んだり耳から聞いたりして外から入ってくる外言語というのと、頭の中で思考する内言語というのがあって、小学校くらいまでは外言語、つまり読み書き、言葉の勉強という側面がすごく強いですけれど、高校くらいになってくると日常的に新聞・雑誌は読みますし、友人とのコミュニケーションは普通にとれるし、抽象的な概念もそれなりに操れるようになってきますし、そうなると言葉の勉強というよりもう思考力の訓練です。
思考力を訓練するときに二つの側面があると思うんですけれど、一つは嘘が見抜けるかということです。世の中には嘘が満ちていますから、それを見抜けるかどうかがその子が生きていく力になるかどうかの分かれ目になると思います。ここは納得できるけど、ここは納得できない、ときちんと認識できるか、そういうふうな思考力を身につけさせてやりたい。あともう一つは、そういう力が身に付いてくると、相手の意図まで見抜くようになっていく訳ですね。悪い奴に対しては相手の裏をかいてやればいいんですけれど、普通の人間関係の中ではそれは思いやりの力になっていく、と僕は思っているんです。つまり、相手が何でこの場面でこう言ったのか意味が分からないと、思いやりはないと思っているんですよ。想像力がないわけです。だから国語の授業を通して思考力を付け、世の中に対しては嘘と本当が見抜ける。それから自分が本当に大事にしなければならない周りの人間に対してはその人の気持ちが汲める、という力になってもらいたいです。
−個人的な活動は?
科学的「読み」の授業研究会と言語技術教育学会に入っています。
−趣味は?
「fuente」という万年筆のクラブに入っています。古山さん(編注:元茗溪学園教諭)からうつされた病気だから強烈で、すっぽりとのめり込んでしまいました。今日は少し万年筆を持ってきたんですよ。
(この後、大切にお手製の筆巻に巻かれたお宝を一本一本ご披露いただきました。)

広島の長原さんという職人さんが作った竹軸のクロスポイントという極太万年筆。鳥取の万年筆博士というお店の田中さんという軸から全部自分で削って作れる、日本に一人か二人しかいない職人さん。東京・大井町の森山さんに研いでもらったクロスポイント。ペン先を自分の手に合わせて研いでもらうんです。1920年代のパーカーのビッグレッド。モンブランの50年代のペン。最近手に入れたパイロットのウルトラスーパー。これは貴重なんですよ。これはメーカーでももう作れないんです。(しばらく続く)

万年筆というのは先端のイリジウムが少しずつ減っていき、だんだん書きやすくなっていくものですが、こういう職人さんたちというのは最初からその人の書く角度や持ち癖に合わせてペン先を砥いでくれるから、最初からとても書きやすい万年筆になるんです。
万年筆自体は昔から使っていました。就職祝いに父から純銀軸のパイロットを買ってもらって気に入って使っていたんです。でも職人さんの作るものに出会って、こんなに楽に書けるのがあったのかと、はまった訳です。もともと職人仕事が好きというのもありますね。職人が介在する筆記具というのはもう万年筆ぐらいしかないですね。万年筆は使ってやるのが一番のメンテナンスです。100本以上ありますが、休ませながら順番に使っています。
(古山先生の記事)
ワールドフォトプレス社 『Memo』2003年6月号

万年筆画家が行く/第3回 「万年筆博士」の田中さん50周年 古山浩一
(略)今回、田中さんの50周年の記事を書くので、社長に今までのユーザーでうるさく注文言ってきて苦労した例をいくつか教えてくださいと頼んだら「あなたほど滅茶苦茶な注文をしてきた例は後にも先にもありません」とおっしゃるので不本意ながら私の例でお話ししたい。
(略)私が注文した中で傑作だなと思う形がふたつある。バルカナイトのストレート極太軸とグリーンセルロイドのバランス太軸だ。両者ともバランス、握り具合とも最高の出来である。ところがセルロイドの方はココからもう少し発展する。以前の職場の同僚、国語教育の杉山さんが近年、脳まで万年筆菌に冒され、この2年間に百本ほど名のある万年筆を集めた。その杉山さんが私のところで万年筆漁りをしていてセルロイドを見つけ「古チャンこれいいよぉ」と、そっくり同じものを田中さんに注文した。ところが出来てきた万年筆は私のより太くて大きく、形もよければ重さもバランスもいい。首軸がぎゅっと詰まったところなどはムーブメントまで感じる。見せびらかした杉山さんはスキップして帰って行き、私はすぐ田中さんに電話をかけた。「古山さん、私も日々進歩しとりますから、まあ、いい形ができたと自負しております。ふっくらもっこら型と名づけましたフフフフフフ・・・・・・」。しょうがないので私もまた注文を出した。田中さんがたどり着いた究極の形のひとつであると思う。
古山浩一画伯のHP紹介 http://www.entotsu.net/
−そういう職人さんのお店に行かれるんですか?
お店にも行きますが、ペンクリニックというのもあって、年に何度か都内のお店に職人さんが招かれるんです。そこへも持っていって行くんです。「先生、これ、ちょっと・・・」と。
−コレクターとしてはかなりの域に達していますね。
いえいえ、僕なんかまだまだ駆け出しです。すごい人が沢山いますから。今世間では滅多に万年筆は見なくなっているんですけれど、この学校はわりと万年筆を使っている先生がいて、すごく嬉しいですね。
万年筆の本当に良いものは極楽気分で書ける。それもメンテナンスしてくれる職人さんがいてのことです。手仕事というのはどんどん減っていますけど、職人さんが滅びるときには万年筆も滅びるでしょうね。
−今日はいいものを見せていただきました。
久しぶりに万年筆を自慢する機会ができて私も嬉しかったです。
−父母会活動に対しての率直な意見
仕事をする上で言うと、こんなにありがたいものはないと思います。居丈高にものを言わないで学校に協力的なので。何かあるとちょっと集まったり、公的にも私的にも距離が近いです。
それよりも僕がこの学校へ来てびっくりしたのは、お父さんお母さん同士がすっごく仲のいい友達を作っていくんですよ。子どもたち同士が友達になるようにお父さんお母さん同士が友達になっていくという雰囲気が素晴らしいなあと思います。先ほど「卒業するのが寂しい」と間中さんが言われましたが、自分が卒業するような気分になってくれるというのはこの学校の父母会のいい雰囲気と言うか、ちょっと真似のできないところかなと思います。
自分の親などは僕が学校を卒業するたびにそういう考えは持たなかったと思うんですよ。もう次に次にと意識が行っていたでしょう。不思議な父母会だなぁ、って思います。
−先生からすると生徒だけではなく、その父母との関わりも気を使われているのではないでしょうか?
でも教員にとってはすごく大事なことだと思うんですよね。お医者さんや教師の世界は狭いと言われます。取り引きとかあればこっちの企業あっちの企業と付き合いがあるものなんでしょうけれど、教師というのは相手にしているのが子どもなので、そういう点では教師でない大人との付き合いはすごく大事なことだと思います。
僕は長い間教師をやっているとだんだんいやな人間になるだろうとずっと思っているんですよ。それはなんでかと言うと、教師は人に言うことを聞かせてなんぼという仕事だからです。そうすると、人に言うことを聞かせることが生業の人間らしい人格に段々なっていくだろうと思っているので。普通の仕事だったら相手の言い分を聞いて自分の言い分も通すといふうになりますけど。もちろん教えることをうまくやろうと思ったら子どもの気持ちを汲んでじゃないと実際うまくはいきません。でも、教えるときには、こっちの言い分を通していくという側面が強いわけです。だから教えるという行為が成り立つんであって。でも、それをずっと続けていくと自分がだんだん嫌な人間になるだろうなぁ、と言う思いがあります。職業って人格作りますからね。
さっき万年筆の職人さんの話しましたけど、「職人気質」という言葉がありますね。職業的なものが人格に及ぼす影響というのは、教師の場合、基本的には良くないものだろうなと思っていますから、自分もお父さんお母さん方から「先生ちょっと見方が狭いわ」とか言われながらやっていかないと駄目だろうなって気がします。キレイゴトかも知れないけれど本当にそう思います。生徒にも卒業する時、「いつかどこかで会って私が教師くさ〜い感じになっていたら言ってちょうだいね」って頼んでます。でも、まだ言われてないですよ。
社会科:榊原里佳先生 [先生の紹介]

世界史がご専門の榊原先生は、エジプトのダハシュール北部発掘調査発掘調査に立ち上げの時から携わっていらっしゃいます。
2003年2月27日、テスト6直前で質問にくる生徒で賑わう職員室を抜け出して
HP委員2人によるインタビューに答えていただきました。
いつもと変わらない誠実なお話ぶりで 真面目な話しに終始し、大人同士の会話を楽しませていただきました。
父母会HP編集委員 三勢栄子(21・24) 村田由枝(22・27)
ご出身は?
生まれは名古屋ですが、我孫子で育ちました。
近所の方の勧めで中学から茗溪(12回生)に入り、大学と大学院は早稲田です。
教師になったのはいつ?
大学院の3年の時に茗溪に教育実習で来たんです。
その時に茗溪で働きませんかというお誘いをいただきまして、1年間補助教員してから就職ということになりました。
教師になったきっかけ
大学の時には全然考えていなくて――普通は大学の時に教員免許を取るんですが――エジプトをやっていこうとずっと思っていたんです。
でも、いろいろな人に助けてもらって・・・
大学の推薦をもらえたのも、先生方がいろいろな面で助けてくれたお蔭だったし、研究室に入れたのも先輩が紹介してくれたのがきっかけだったし、そういうことを考えると、もらって、ためてきたものを何か返さなきゃいけないなぁ〜と思ったんです。
自分はやりたいことをやれたのが幸せで楽しかったから、「そういうほうがいいんだよ」「そういうことができるんだよ」ということを、自分がやりたいことを一生懸命探している中学生・高校生に伝えたくなって、大学院に入ってから教職課程を取ったんです。
大学院に入ってからだから結構大変で、友達もいないしノートも借りられないから、全部自分で講義に出なきゃいけなくて。(笑)
それで、どこで働きたいかといったら、やっぱり母校なんですよね。
自分がそんなふうに思えるようになったのも、茗溪で先生たちに話を聞いてもらったり、教えてもらったお陰だと思っているので。
だから、今、茗溪で働けて、すごいホントにラッキーだと思ってます。
エジプト考古学への興味の始まり
小学校の時からずっと好きで、「世界七不思議」や「ピラミッドの謎」という図書館にあった本を読んでました。
茗溪5年の個人課題研究では、「古代文明の比較から、人類の文化形成の条件」というものを考えました。
エジプト発掘調査への道
大学の時、発掘調査に参加できたらいいなと思って、まず「エジプト文化研究会」という早稲田大学エジプト研究所で働いている先輩がたくさんいるサークルに入って、そこの勉強会に毎週2回、聞いたり、研究発表したりしながら、研究所のボランティアに参加できるようになりました。
我孫子の新木駅周辺の発掘調査もやらせていただいて、大学では教えてもらえない発掘の手法や道具の使い方を現場で勉強させてもらいました。
遺跡かどうかは瞬間に分かるのですか?
エジプトの場合、すぐ分かるんですよ。
何故かっていうと、そこに土器が山のように落ちてるんです。
砂漠の中でも 私たちが掘っているダハシュールに行くと――他は砂と岩しかないんですけど――エジプトの18王朝ツタンカーメンの時代に特徴的に出てくる模様や色を使った土器が散乱してたり、エジプトの象形文字を刻んだ石が落ちていたり、非常に分かり易いです。
遺跡の状態、風化は?
最近の環境変化で塩害が進んでいますが、硬い石は劣化しないです。
エジプトは住む場所が水辺に限られていて、人が住んでいた痕跡のところはおそらく崩されて残っていないですが、お墓は全部、住む場所とは離れた砂漠にあるので壊されずに残っています。
今までの人生で一番嬉しかったこと
エジプトに行けたことですかね〜。
現場に出て深呼吸した時の気持ちが忘れられないというか、ああいう気持ちを――今の27回生もそうですけど――味わえるといいなぁ、って思うんです。
そういう経験が一度でもあると絶対違うんですよ。
最初、学部の3年の時にサークルの旅行で行って、皆で遺跡を見て回って、次の年の春からは調査で全部で8回行ってますが、毎回エジプトに着くと「帰ってきたな」って感じで。(笑)
外で働くのが好きなので、毎日すごく楽しいです。
今までの人生で一番悲しかったこと
あんまり無いですね。
中学生の頃からを振り返ってみて、辛いとか悲しいとかというのがあっても、「きっとこれは、これからの人生の中でまだ半分ぐらいなんだろう。これが一番じゃない。これからまだまだ辛い事がたくさんあるから、とらわれていてはいけない、と思って、頑張らなきゃいけないのかなぁ〜」というふうに考えて今まできたので・・・
だから、いっぱい理由はあったと思うんですが、乗り越えられないような悲しいこととか辛いことは無かったです。
10年後の自分、20年後の自分、30年後の自分
結構行き当たりばったりに生きてきたもんで。(笑)
その時にやりたいことをやれる道を探してやってきたので、将来もやりたいことがやれてるといいな、っていうぐらいです。
それが何に変わっていくのか分からないですが、それもちょっと楽しくて。(笑)
きっと10代の10年間と今からの10年間では、密度も全然違って、自分の変わるスピードも違うんだろうと思います。
今は生徒たちに伝えなくちゃと思っていることがあるので教師をしてるんですが、自分の中にそういう気持ちが無くなったらば、それは辞めなくちゃいけない。惰性でいる職場じゃないじゃないですか、学校って。
だから、もしそうなったら、もっとそういう気持ちを持っている人に代わっていったほうが良いと思ってます。
自分は茗溪の卒業生として茗溪を大事に思ってますので、自分が伝えたい気持ちがなくなったら続けていきたくはないです。
留学はやっぱりすごく楽しそうだな、とは思いますね。
エジプトのことだけじゃなくて、イギリスの習慣とか文学とかも勉強してみたいし、出てくる興味を1個1個潰していこうかな、という感じです。
日常の生活で一番大切にしていること
「ひとりではない」っていう感が常にあって、いろいろなことするにしても、いろいろな意味で助けられてたり、周りの人がいることで成り立っている、というのが自分にとって大切で忘れてはいけないなぁ〜と思うことですかね・・・
クラスにいても生徒がみんないるから楽しいですし、ひとりでずっと部屋の中に居たんでは考えられないこととか、できないことがいっぱいできてると思うと、周りにいる人を大事にしないとなぁ〜。
と思いつつ、あまり大事にできてないかもしれないですけど。(笑)
社会科教育を通して生徒に伝えたいこと
社会科って、人間があって成り立っているものなので、とにかく “人” ですよね。
エジプトをやってても、途中から面白くなってくるのは遺跡よりもエジプト人なんです。
だから結局 「人間て面白いね」っていうのが伝わるといいかなと思っていて・・・
自分は歴史をやっているので、「こういうことから、こういうことを学ぶばなきゃいけないんだよ」というのもありますが、結局出て来るのは人間なんですよね。
例えばガンジーとか素晴らしい人たちが歴史の中に登場してくると、いいなぁ〜と思って、それが伝わるといいなぁ〜と。
個人的な活動、ライフワーク
今はエジプト学研究所にたまっている資料を整理したり、研究で調査に行ってる人たちのいない間のデータの整理などを、コンスタントには行けませんが、やらせてもらっています。
どんな形でもいいので、エジプトの研究を少しでも支えたいというのは変わらないと思います。
茗溪父母会活動に対する率直な意見、感想
茗溪のご父母は茗溪が好きですよね〜。
だから、いろいろな意味で助かってます。
私の母は茗溪の活動にはほとんど関わらなかったので、自分が教員になって初めて、クラス父母会やお母さんたちだけで集まって情報交換しているのを知って、一所懸命やられていてすごいな、と圧倒されているのが正直な気持ちです。(笑)
父母会だと自分が話し過ぎちゃうので、直接お母さんたちで話し合っていただいたほうが良いと思ってます。
個性を自己満足的に語ってください
真面目だけで生きてきたので、真面目が取り得です。(笑)

